名称 | 医王山 養珠院 浄瑠璃寺 |
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御本尊 | 薬師如来 |
所在地 | 愛媛県松山市浄瑠璃町282 [Mapion|googlemap] |
【本尊真言】
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
【御詠歌】
極楽の浄瑠璃世界たくらえば 受くる苦楽は報いならまし
【略縁起】
寺伝によれば、和銅元年(708)当地を訪れた行基菩薩が仏法流布の霊地であると感得し、薬師如来と日光・月光菩薩、十二神将の像を刻み、一寺を建立して安置したことに始まる。大同2年(807)弘法大師が滞在して寺を再興した。江戸時代の正徳15年(1715)山火事で本尊・脇侍以外、建物・寺宝のほとんどを焼失するが、地元の庄屋から出家して住職となった堯音が全国を勧進して浄財を募り、天明4年(1784)に再建した。
浄瑠璃寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は「薬師如来」。中央の宝印は蓮台上の火炎宝珠に薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「四国四十六番」、左下は判読しづらいが、白抜きで「薬」または「養」と思われる。
(2)平成18年拝受の納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納経」「本尊医王殿」「いよ(伊豫)浄瑠璃寺」。中央の宝印は蓮台上の火炎宝珠に薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「四十六番」、左下は白抜きで「薬」または「養」と思われる。
(2)天保12年(1841)の納経。揮毫は「奉納経」「本尊薬師如来」「浄瑠璃寺」。朱印は天保11年のものと同じ。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉拝霊(奉拝礼の間違いか?)」「本尊薬師如来」「浄瑠璃寺」。朱印は現在のものとほぼ同じで、中央の宝印は蓮台上の宝印に薬師如来の種字「バイ」、右上の印は「四国四十六番」、左下は白抜きで「薬」または「養」と思われる。
浄瑠璃寺について
山号 | 医王山(いおうざん) |
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寺号 | 浄瑠璃寺(じょうるりじ) |
院号 | 養珠院(ようじゅいん) |
御本尊 | 薬師如来 |
所在地 | 愛媛県松山市浄瑠璃町282番地 |
創建年代 | 和銅元年(708) |
開山 | 行基菩薩 |
宗派等 | 真言宗豊山派 |
覚え書き
松山市内には札所が8ヶ所ある。その最初の札所である浄瑠璃寺は、三坂峠を越えて道後平野へ降りたところにある。
寺伝によれば、当地を訪れた行基菩薩が仏法流布の霊地と感得して、薬師如来と日光・月光両菩薩、十二神将を刻み、伽藍を建立して安置したという。大同2年(807)には弘法大師が巡錫した。山号は薬師如来の別名である医王如来に、寺号は薬師如来のいらっしゃる浄瑠璃浄土に因む。
室町時代の終わり頃、荏原城主・平岡道倚〔ひらおかみちより〕が病気平癒の奉賽として土地を寄進し、伽藍を再建した。
しかし元禄年間(1688~1704)山火事で延焼し、本尊と須弥壇を残すのみとなった。当村の庄屋から出家して住職となった堯音〔ぎょうおん〕は、全国を托鉢・勧進して天明4年(1784)寺を再建した。さらに岩屋寺からの遍路道に八つの橋を架け、立花橋を補強した。
境内入口には正岡子規の句碑がある。境内には仏足石、仏手石、説法石(霊鷲山の石が埋め込まれている)、鎮魂の皿、万霊塔、一願弁天などが並ぶ。五穀豊穣の御利益があるという籾大師〔もみだいし〕は本物の籾にお大師様が刻まれているとのこと。市指定天然記念物の伊吹柏槇〔イブキビャクシン〕の傍に、拡大模写した石像がある。