一宮神社(徳島)

一宮神社(徳島)

一宮神社は往古の阿波国一宮で、式内名神大社・天石門別八倉比売神社の論社。神山町に鎮座する上一宮大粟神社の御分霊を国府近くに勧請し、下一宮と称したことを創祀とする。南北朝時代以降、一宮城主の一宮氏が大宮司として祭祀を司った。江戸時代には徳島藩主・蜂須賀氏からも深く崇敬された。御祭神は大宜都比売命、御別名・天石門別八倉比売命で、衣食・農業・商業・開運の神、また安産・縁結びの神として信仰される。江戸時代以前は四国八十八ヶ所の13番札所でもあった。

正式名称 一宮神社〔いちのみやじんじゃ〕
御祭神 大宜都比売命 天石門別八倉比売命
社格等 式内論社(名神大) 旧県社
鎮座地 徳島県徳島市一宮町西丁237 [Mapion|googlemap]
最寄り駅 徳島(JR高徳線・徳島線)
バス停:一の宮札所前
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御朱印

  • 一宮神社(徳島)の御朱印

    (1)

  • 一宮神社(徳島)の御朱印

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(1)平成18年拝受の御朱印。中央上の朱印は「一宮神社之印」。下の印は「阿波国一宮 一宮神社 参拝記念」。

(2)平成27年拝受の御朱印。朱印は平成18年のものと同じ。

昔の御朱印

  • 一宮神社(徳島)の納経

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  • 一宮神社(徳島)の納経

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  • 一宮神社/大日寺(徳島)の納経

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  • 一宮神社/大日寺(徳島)の納経

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  • 一宮神社/大日寺(徳島)の納経

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  • 一宮神社(徳島)の御朱印

    (6)

(1)享保11年(1726)の納経。納経は別当の大日寺が行っている。揮毫は「奉納普門品 一宮大明神本地十一面尊 本尊大日如来大師御作也 大乗妙典一部 阿州名東郡一ノ宮村大栗山花蔵院 大日寺」。中央に宝印はない。

(2)文政8年(1825)の納経。一宮大明神の大宮司による納経。揮毫は「奉納 一宮大明神 本地佛十一面観音 大宮司」。中央上の宝印は勅願所であることを示す十六八重菊の御紋。左下の印は「水主勝定」、大宮司の名と思われる。左に御詠歌「阿波之国 一ノ宮とハいうたすき かけてたのめや 此世後のよ」の朱印を押す。

(3)文政8年(1825)の納経。(2)と同じ納経帳にあるが、こちらは大日寺での納経。揮毫は「奉納経 本尊大日如来 一宮大明神 大栗山 大日寺」。中央上の宝印は勅願所であることを示す十六八重菊の御紋。右上の印は「四国十三番」、左下は「太栗山 華蔵院」。

※もともと四国13番は一宮大明神が札所で、大日寺が納経を司っていたが、文政年間の中頃、一宮大明神の神主も納経を行うようになった。その後、両者で調整がなされたようで、天保の頃から幕末まで一宮大明神の神主と別当大日寺が連署するようになる。朱印はほぼ同じだが、神主が先に受け付けた場合は左下の印が「笠原之章」(笠原は神主の姓)、大日寺が先に受け付けた場合は「太栗山 華蔵院」になる。

(4)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納経 一宮大明神 神主笠原丹波 別當大日寺」。中央の朱印は勅願所であることを示す十六八重菊の御紋。右上の印は「四国十三番」、左下は「太栗山 華蔵院」で、先に大日寺で納経を受けたことがわかる。

(5)万延2年(1861)の納経。揮毫は「奉拝 一宮大明神 神主笠原丹波 別当大日寺」。中央の朱印は勅願所であることを示す十六八重菊の御紋。右上の印は「四國十三番」、左下は「笠原之章」で、先に一宮大明神の神主から納経を受けたことがわかる。「奉納」ではなく「奉拝」であるのも神主の筆によるためかも知れない。

(6)明治11年(1878)の御朱印。上の朱印は「粟國一宮社印」。下の印は「笠原之章」で、江戸時代に使われていたものと同じ。

御由緒

御祭神

■大宜都比売命
■天石門別八倉比売命

『平成「祭」データ』には、「大宜都比売命 御別名 天石門別八倉比売命を奉祀する」とある。

大宜都比売命は、古事記の国生みの段に「粟(阿波)国を大宜都比売と謂い」とある。「宜(ケ)」は食物の総称で、大いなる食物の女神を意味する神名である。高天原を追放された須佐之男命に食事を求められ、鼻・口・尻から食物を取り出して奉ったため、怒った命に斬り殺されてしまったが、その死体から蚕と五穀が生じたと記されている。

御由緒

一宮神社はかつての阿波国一宮で、延喜式神名帳所載の名神大社・天石門別八倉比売神社の論社である。江戸時代以前は一宮大明神と称し、四国八十八ヶ所の13番札所でもあった。

本来の一宮・天石門別八倉比売神社は現在の神山町神領の上一宮大粟神社だが、別廟として国府近くに御分霊を勧請し、下一宮として祀られたのが当社の創建とされる。その時期は詳らかでないが、南北朝時代には「上一宮」の名が見えるので、それ以前のことと考えられている。後に上一宮は大粟大明神、下一宮は一宮大明神と称されるようになった。

下一宮は、元は一宮山上の明神峰にあり、北麓の現社地に遷座したのは天正年間(1572~93)のことという。あるいは最初は鬼籠野(神山町鬼籠野)にあったともいう。

大同3年(808)阿波守となった田口息継の子孫は阿波国に土着し、一宮の大宮司職と社領・長講堂領一宮の地頭職を世襲して一宮氏を称していた。

鎌倉時代に阿波国守護となった小笠原長清の後裔・長宗は延元3年(1338)下一宮が鎮座する当地に一宮城を築城して本拠地するとともに、一宮宗成から大宮司職と地頭職を譲り受けた。以来、長宗の子孫は一宮氏を称し、一宮大明神の大宮司職を世襲するとともに、阿波国の有力国人として活躍した。

観応の擾乱が起こると、小笠原(一宮)長宗は阿波国の守護となった細川氏と対立し、合戦を繰り返した。しかし、正平17年(1362)一宮氏は細川氏に降伏し、その有力被官となった。

戦国時代に入って三好氏が台頭すると姻戚関係を結び、当時の当主で三好長慶の妹婿であった一宮成祐(成助とも)は久米田の戦いにも参陣している。三好氏と対立するようになってからは土佐の長宗我部元親と結んで阿波平定に貢献した。しかし、四国を平定した元親は成祐を夷山城に招いて謀殺、弟の光孝(成孝とも)は讃岐国水主に逃れた。これによって当社も衰微したと考えられている。

天正13年(1585)阿波に入部した蜂須賀家政が当初は一宮城を居城とし、翌14年(1586)に誕生した蜂須賀至鎮の産土神となったことから、歴代徳島藩主・蜂須賀家の深い崇敬を受けるようになった。

寛永7年(1630)蜂須賀忠鎮(忠英)が現在の社殿を造営、歴代領主によりたびたび社殿の修理が行われた。また、毎年の祭礼には神馬2頭と人夫4人が遣わされ、神事料として米2石4斗を寄進するのが例とされた。

また歴代一宮城主の霊を若宮明神として祀り、讃岐国水主から光孝の子・光信を招いて神職とした。以後、その子孫が神主を世襲、勝定の代に至り、蜂須賀家の縁戚である小倉藩・小笠原家をはばかり、笠原に改姓したという。

※上に掲載した文政8年(1825)の納経には「水主勝定」の印が押されており、この時の神主が笠原に改姓した勝定ではないかと思われる。小笠原から笠原に改姓したわけではなく、讃岐に逃れて以降用いていた水主姓を本姓である小笠原に戻そうとしたが、小倉藩・小笠原家をはばかって笠原としたということではないだろうか。

江戸時代以前は一宮大明神が四国13番札所であった。当初は別当の大日寺が納経を司っていたが、天保の頃(1831~45)から一宮大明神の神主と大日寺が連名で納経を行うようになった。明治維新による神仏分離により、札所は大日寺が引き継いだ。

明治6年(1873)郷社に列格、昭和17年(1942)県社に昇格。平成5年(1993)本殿が国の重要文化財に指定された。

式内論社

延喜式神名帳所載の天石門別八倉比売神社は、承和8年(841)従五位下を奉授され、以後、貞観7年(865)従四位下、貞観13年(871)従四位上、貞観16年(874)正四位下、元慶3年(正四位上)に累進し、六国史終了時点では阿波国で最高位にあった。延喜の制では名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の官幣に預かった。天慶3年(940)には海賊調伏の祈祷により正三位を授けられた。近代社格制度において国幣中社に列せられた大麻比古神社忌部神社に勝るとも劣らない格式を誇る名社である。

一宮神社は天石門別八倉比売神社の論社であるが、他の有力な論社に徳島市国府町西矢野の天石門別八倉比売神社(旧称・杉尾大明神)と名西郡神山町神領の上一宮大粟神社がある。

上一宮大粟神社については、もともと一宮神社が上一宮大粟神社の別病・下一宮として勧請された歴史があり、元宮と新宮の関係と見ることができる。

一宮神社が天石門別八倉比売神社であるということについては、延享4年(1747)の『一宮大明神輿勧進帖序』に「名東郡一ノ宮村に在す御神ハ天岩門別八倉比売命と申伝たり」とあり、また寛延元年(1748)の『神輿并神楽寄進帳跋』には「一宮之神者伝八倉比売尊」とある(『徳島県の地名』平凡社)。また、江戸時代以前の例祭は八倉比売命の名に因んで8月8日に行われたともいう。

しかし江戸時代半ばになると、『矢野神山八倉比売神社本紀』に基づき徳島藩の藩撰地誌である『阿波志』などが矢野村の杉尾大明神(国府町西矢野の天石門別八倉比売神社)を当て、神領村の大粟大明神(上一宮大粟神社)は国史現在社の埴生女屋神とした。これに従って徳島藩は矢野村の杉尾大明神を式内社と定め、明治3年(1870)杉尾大明神を天石門別八倉比売神社、大粟大明神を埴生女屋神社と改称した。

しかし、明治に入ると『神祇志料』は天石門別八倉比売神社は名東郡一宮村の一宮明神とし、『特選神名牒』も『矢野神山八倉比売神社本紀』は後世の作で証拠にはならないとして一宮神社に比定している。

筆者の見解としては、国府町西矢野の天石門別八倉比売神社(杉尾大明神)は国府に近く、しかも気延山古墳群の中にあるという立地を考えると、式内の古社であっても不思議はない。しかし、後に一宮とされた歴史を考えれば、上一宮大粟神社と一宮神社に比定するほうが妥当であるように思われる。本来の天石門別八倉比売神社は上一宮であり、小笠原氏の一族が一宮の大宮司となった後、一宮神社(下一宮)に祭祀が引き継がれたということではないだろうか。

阿波国一宮

一般に阿波国一宮は鳴門市の大麻比古神社とされている。しかし、大麻比古神社を一宮とする資料が現れるのは室町時代以降であり、近年では、当初の阿波国一宮は上一宮大粟神社で、その後、国府近くに御分霊を勧請した下一宮(一宮神社)に移り、南北朝時代になって大麻比古神社が一宮とされるようになったのではないかと考えられている。

京都・長講堂に附属した皇室の所領である長講堂領の中に阿波一宮がある。阿波国一宮の社領が荘園化したもので、現在の神山町から徳島市一宮町にかけての鮎喰川流域とされる。建久2年(1191)の長講堂領の目録にその名が見えるので、その成立は院政時代に遡る。このことから一宮が成立した時代の阿波国一宮は鮎喰川流域にあったことが推定される。そのため、上一宮大粟神社・一宮神社が本来の阿波国一宮であったことが確実視されるようになった。

現在、国一宮で一宮神社を称する神社は当社以外に見当たらず、その多くは郡や地域の一宮である。しかし、江戸時代以前に一宮明神等と称していた国一の宮は他にも例がある(武蔵国の小野神社など。讃岐国一宮の田村神社の社前には「一宮大社」と彫られた石灯籠が建っている)。

当社が明治以降も本来の社号である天石門別八倉比売神社に復しなかったのは、上記のように徳島藩が矢野村の杉尾大明神を八倉比売神社としたためであろう。また、かつては一宮であったという歴史を主張する意味もあったのかもしれない。

四国第13番札所

江戸時代以前の四国八十八ヶ所では、各国の一宮が札所となっていた(ただし、島にあって参拝に不便な伊予国の大山祇神社は遙拝所の別宮大山祇神社が前札所から事実上の札所となり、讃岐国の田村神社は江戸時代前期に神仏分離をして旧別当の一宮寺が札所となっていた)。

阿波国では一宮神社が第13番札所となっていた。因みに大麻比古神社は1番札所霊山寺の奥の院と位置づけられていたが、札所とはされていない。これも一宮神社が本来の一宮であった証拠の一つと考えられる。と同時に、四国八十八ヶ所の原型の成立が、大麻比古神社が阿波国一宮として定着以前に遡る可能性を示唆しているのではないだろうか。

さて、天保年間から幕末までの四国八十八ヶ所の納経帳を見ると、上記のように四国13番では一宮大明神の神主と別当大日寺が連署している。これは他に見られない特徴で、一宮大明神と大日寺の関係について想像をかき立てられる。

現在では四国八十八ヶ所というと弘法大師信仰の霊場とされているが、古い時代においては必ずしもそうではなく、各国の一宮や国分寺が含まれているように多様な要素が入っている。弘法大師は開創者、先達だったのである。しかし、次第に弘法大師自身が信仰の対象となり、江戸時代に入った頃には大師信仰の霊場となっていたのである。

そういう観点から13番札所を見ると、一宮大明神が札所とされたのは大師信仰が中心となる以前、一宮としてであり、札所本尊は一宮大明神の本地仏である行基菩薩作の十一面観音である。

一宮神社/大日寺(徳島)の納経

一方、別当の大日寺は納経を司るだけであったが、本尊の大日如来は弘法大師作という伝承を持つ。享保11年(1726)の納経では「一宮大明神本地十一面尊」と「本尊大日如来大師御作也」を同列の扱いで書き、さらに文政8年(1825)の納経では「本尊大日如来」を「一宮大明神」の前に書いている。

また、『徳島県の地名』(平凡社)によれば、文政8年の『奇応記』には、大日寺が遍路道しるべ(『四国辺路道指南』や『四国徧礼霊場記』のことであろう)に本尊を十一面観音としているのは誤りだと主張していることが記されているという。大日寺こそ弘法大師縁の霊場であるという意識が現れているように思われる。

一宮神社(徳島)の納経

同じ文政8年の納経帳に一宮大明神の神主による納経もあるが、こちらには「一宮大明神」「本地仏十一面観音」とある。「阿波の国 一ノ宮とはゆふたすき…」という御詠歌の印も押されており、13番札所はあくまで阿波国一宮であるという主張を示している。

納経の朱印から判断して、当時の神主は笠原に改姓した勝定だと思われる。この改姓も小笠原氏・一宮氏との縁を強調し、一宮としての由緒の明確化に関わっているのであろう。当時、大日寺と一宮の神主の間で札所の位置づけを巡る緊張関係があったことが窺われる。

一宮神社/大日寺(徳島)の納経

その後、天保年間(1831~45)から両者が納経に連署するようになった。何らかの形で和解が成立したことは確実で、もしかすると徳島藩による仲裁があったのかもしれないが、揮毫が「一宮大明神」のみになっていること、どちらで先に納経しても神主笠原丹波・別当大日寺の順で署名があることなどから、神主側に有利な決着だったのだろう。

明治維新による神仏分離の後、13番札所は大日寺に引き継がれた。また、一宮大明神の本地仏・十一面観音も大日寺に遷されて本尊となり、大日寺の旧本尊だった大日如来は脇侍とされた。

境内社

拝殿の左側に境内社の並ぶ一角がある。左側に手前から若葉神社、地神社(社日)、猿田彦神社、天神社、大己貴神社・事代主神社合殿、右側に衆霊神様、正面に宗像神社と若宮神社。

■若宮神社
小笠原長宗から一宮成祐に至る11代の一宮城主を祀る。

写真帖

  • 一宮神社(徳島)注連柱と社号標

    注連柱と社号標

  • 一宮神社(徳島)神橋

    神橋

  • 一宮神社(徳島)鳥居

    鳥居

  • 一宮神社(徳島)狛犬

    狛犬

  • 一宮神社(徳島)手水舎

    手水舎

  • 一宮神社(徳島)若葉神社

    若葉神社

  • 一宮神社(徳島)地神社(社日)

    地神社(社日)

  • 一宮神社(徳島)境内社

    境内社

  • 一宮神社(徳島)衆霊神様

    衆霊神様

  • 一宮神社(徳島)宗像神社・若宮神社

    宗像神社・若宮神社

  • 一宮神社(徳島)神馬

    神馬

  • 一宮神社(徳島)狛犬

    狛犬

  • 一宮神社(徳島)拝殿

    拝殿

  • 一宮神社(徳島)神号額

    神号額「一宮大明神」

  • 一宮神社(徳島)本殿

    本殿

  • 一宮神社(徳島)本殿

    本殿

メモ

四国第13番札所・大日寺と道路をはさんで鎮座する。次々とお遍路さんが訪れる大日寺に比べてひっそりとした境内だが、併せて参拝する人も少なくないようだ。

初めての参拝は平成元年に四国八十八ヶ所を巡拝した時。2度目の参拝も平成18年の四国巡拝時で、この時に御朱印もいただいた。ただし、どちらの時もあまりゆっくりと参拝することはできなかった。3度目は平成27年、徳島近郊の神社を参拝した時で、このときはゆっくりと境内を見て回ることもできた。

国指定重要文化財の本殿や蜂須賀家寄進という神橋など、見どころも多い。

一宮神社の概要

名称 一宮神社
旧称 一宮大明神 大粟明神 天石門別八倉比売神社
御祭神 大宜都比売命〔おおげつひめのみこと〕
天石門別八倉比売命〔あめのいわとわけやくらひめのみこと〕
鎮座地 徳島県徳島市一宮町西丁237番地
創建年代 不詳
社格等 式内社(論) 阿波国一宮 旧県社
延喜式 阿波国名方郡 天石門別八倉比売神社 名神大 月次新嘗
例祭 10月18日
神事・行事 1月1日/元旦祭
旧1月23日/日神祭星神祭(二十三夜)
3月社日/地神祭
4月2日/春祭(太々神楽・湯立て神楽)
旧5月23日/日神祭星神祭(二十三夜)
7月7日/夏祭(お日待祭)
7月8日/夏祭(小祭)
9月社日/地神祭
旧9月1日/若宮神社祭
旧9月23日/日神祭星神祭(二十三夜)
12月18日/新嘗祭
※『平成「祭」データ』による
文化財 〈重要文化財〉本殿 附棟札九枚
巡拝 (四国八十八ヶ所旧13番)

交通アクセス

□JR高徳線「徳島駅」よりバス
■徳島バス神山高校行き・刑務所前行き「一の宮札所前」下車徒歩すぐ


※掲載の情報は最新のものとは限りません。ご自身で確認をお願いします。

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