豊鹿嶋神社は、社伝では慶雲4年(707)の創建とされる。古くは鹿島大明神と称したが、明治になって豊鹿嶋神社と改称した。本殿は文正元年(1466)の造営で、都内にある唯一の室町時代の神社建築である。
正式名称 | 豊鹿嶋神社〔とよかしまじんじゃ〕 |
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御祭神 | 武御加豆智命 〈相殿〉配祀・合祀の神々 |
社格等 | 旧郷社 |
鎮座地 | 東京都東大和市芋窪1-2067 [Mapion|googlemap] |
最寄り駅 | 上北台(多摩モノレール) バス停:貯水池下 |
御由緒
豊鹿嶋神社は、多摩湖近くの狭山丘陵に鎮座する。このあたりは古くから人々が住み着いたところで、社殿背後の丘からも縄文時代の遺跡が発見されている。
もとは鹿島大明神と称したが、明治以降に豊鹿嶋神社と改められたらしい。『常陸国風土記』に、豊葦原瑞穂国では鹿島の神を「豊かしまの宮」とあることに因むものか、あるいは末社稲荷神社の御祭神・豊受姫命の「豊」をつけたではないか、という(豊鹿嶋神社の由緒書による)。
社伝によれば、文武天皇の御代の慶安4年(707)武蔵の国に来た鬼神を常陸峯に鎮めたことから、天智天皇第四の姫宮と蘇我山田石川麿が社殿を創建したという。
この鬼神の頭が3面であったので、これに因み、かつての祭礼では三面の獅子頭を用いる獅子舞が行われていたと伝えられる。
『新編武蔵風土記稿』には、御神体は龍王丸という御祭神・武御加豆智命の太刀で、神主も拝することができない、とある。
建武3年(1336)多田満仲の子孫・澤井三郎が再建したとされる。
文正元年(1466)現在の本殿が造営された。都内に現存する唯一の室町時代の神社建築である。江戸時代は朱印地13石を寄せられていた。安政5年(1858)旧拝殿・覆殿が造営された。
明治6年(1873)村社に列格、明治14年(1881)郷社に昇格。
御朱印
(1)平成19年拝受の御朱印。中央の朱印は雲に「郷社 豊鹿嶋神社」。
(2)平成28年拝受の御朱印。中央の朱印は平成19年のものと同じ。左下の印は「豊鹿嶋神社宮司之印」。
写真帖
見どころ
■本殿
都内最古の神社建築で、都の有形文化財に指定されている。平成5年(1993)の大改修の際、『新編武蔵風土記稿』にある文正元年(1466)の棟札が発見され、都内唯一の室町時代の神社建築であることが確認された。さらに5枚の棟札により修理の年代も確定されている。
一間社流造で、中世における当地方の和様建築の特徴をよく示す遺構だという。現在は覆殿の中に納められている。
また、本殿に安置されている木造狛犬は、市の有形文化財。台座裏に宝暦10年(1760)の銘があるが、これは修理を行ったときのもので、実際の製作はさらに遡る可能瀬もあるとのことである。
■御神木 鹿島の大欅
参道左手にある。周囲2丈5尺余り(約7.5m)、昭和の初めまで枝を生い茂らせていたが、落雷で幹が折れてしまった。当時、辺りが暗くなるとオッポッポ(ふくろう)がどこからともなく飛んできて、木の上で目を光らせていたといい、すぐそばにオッポッポの像が建てられている。
メモ
多摩湖近くの丘に鎮座する。広い境内には木々が生い茂り、多くの境内社が散在する。宅地化の波が押し寄せているとはいえ、まだまだ緑多いところである。
参道を進み、最後の石段を登ると2本の杉の木が並んで立ち、間に注連縄を張って注連柱のようになっていたのだが、平成28年の参拝時には左側の杉がなくなり、新しく苗木が植えられていた。
御朱印は境内の西側、宮司さんのお宅でいただいた。
豊鹿嶋神社の概要
名称 | 豊鹿嶋神社 |
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旧称 | 鹿島神社 鹿島大明神 |
御祭神 | 武御加豆智命〔たけみかづちのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都東大和市芋窪一丁目2067番地 |
創建年代 | 伝・慶雲4年(707) |
社格等 | 旧郷社 |
例祭 | 9月第2日曜日 |
神事・行事 | 2月19日/祈年祭 4月15日/春祭 11月26日/新嘗祭 |
文化財 | 〈都有形文化財〉本殿 |
交通アクセス
□多摩モノレール「上北台駅」より徒歩約15分
□西武拝島線「東大和市駅」よりバス
■西武バスイオンモール行き・都バス青梅車庫行き「貯水池下」下車徒歩1分
□JR中央線「立川駅」よりバス
■西武バスイオンモール行き「貯水池下」下車徒歩1分