浮嶋神社 | 愛媛県東温市

浮嶋神社

浮嶋神社は『三代実録』にその名が見える国史見在社であり、浮嶋神(可美葦牙彦舅尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊)を祀ったことに始まると伝えられる。後に越智益躬が三島神を合祀した。南北朝時代には当地に滞在した満良親王・懐良親王・長慶天皇や後南朝の忠義王の崇敬を受けたと伝えられ、近くには長慶天皇の御陵とされる浮嶋陵がある。江戸時代には松山藩の祈願所とされ、菖蒲祭や三神御面による雨乞いが行われた。

正式名称 浮嶋神社〔うきしまじんじゃ〕
御祭神 可美葦牙彦舅尊 伊弉諾尊 伊弉冉尊 大山積命 雷神 高龗神
社格等 国史見在社 旧県社
鎮座地 御鎮座地の住所 [Mapion|googlemap]
公式サイト http://www.ukishima-jinja.com/(リンク切れ)
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目次

御朱印

  • 浮嶋神社の御朱印

    (1)

(1)平成21年拝受の御朱印。朱印は「浮嶋神社」(横向きになっている)。

御由緒

浮嶋神社舞殿内部

御祭神

浮嶋神
■可美葦牙彦舅尊〔うましあしかびひこじのみこと〕
■伊弉諾尊
■伊弉冉尊
三島神
■大山積命
■雷神
■高龗神

神社でいただいた由緒書による。元々祀られていた浮嶋神と越智益躬が合祀した三島神を祀るとされるが、『平成「祭」データ』は可美葦牙彦舅尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊・大山積命を主祭神、雷神・高龗神を配祀神とし、住吉三神(上筒男命・中筒男命・底筒男命)を合祀する。愛媛県神社庁の公式サイトでは可美葦牙彦舅尊・大山積命と三神御面。明治神社誌料は大山積命・雷神・高龗神を御祭神とし、三神御面を相殿に祀るとする。

由緒(歴史)

浮嶋神社は六国史に名が見える国史見在社であり、元浮穴郡の一の宮、牛渕・南野田・北野田・中野の大氏神として崇敬されてきた。

創建年代は不詳だが、社伝によれば遙か古代より浮嶋神を祀り、崇神天皇の頃には天津社に列したとされる。社地「王座」は物部氏の祖・宇麻志麻治命〔うましまじのみこと〕降誕の地であるという。その後、越智益躬〔おちのますみ〕が大山祇神社より御分霊を勧請し、氏神とした。

『三代実録』の貞観9年(867)2月5日条には「伊予国正五位上浮嶋神に従五位下を授く」とある。この時、朝廷より神田6町を賜ったと伝えられる。保延5年(1140)には崇徳天皇の勅により、道音寺・香積寺・西光寺・明照寺の四別当が置かれた。

武門の崇敬篤く、越智息利・河野通清・白石三郎家員・牛渕太郎孝房等により社殿の改築や神田の奉納があったという。

南北朝時代には南朝方の得能氏が館を設けて崇敬、満良親王・懐良親王による奉幣があり、文中年間(1444~49)には長慶天皇が武運長久の祈願を執り行わせた。長慶天皇は当地の王座屋敷に滞在して崩御したという伝承があり、当社西側にはその御陵(浮嶋陵)が残る。また長禄年間(1457~60)後南朝の河野宮忠義王が王座屋敷に滞在し、当社を尊崇したとされる。

天正14年(1587)長宗我部の兵火により社殿をはじめ旧記・宝物等焼失してしまった。慶長年間(1596~1615)加藤嘉明が再建して三島大明神と称し、河野氏の時代に行われていた菖蒲祭を再興した。これは当社の神主が領主の居城に赴き、甲冑の前で領主の武運長久と民衆の繁栄を祈るというもので、その後松山に入った松平(久松)氏もこれを引継ぎ、藩の祈願所として崇敬した。

また、当社には河野氏から伝わった三体の古面(三神御面・雨乞いの御面)があり、雨乞い・雨止めの霊験で知られ、しばしば代官が藩主の命により祈雨祭を行った。ところが寛文年間(1661~73)野田の三島宮(徳威三島宮)との間で御面争議が起こり、寺社奉行の裁定により両社が隔年鎮座で祀ることとなった。

明治2年(1869)社号を浮嶋神社に復する(『明治神社誌料』は明治3年12月とする)。明治の社格制度では郷社に列し、明治14年(1881)県社に昇格した。

長慶天皇陵と長慶河野宮霊社

浮嶋神社長慶天皇御陵

長慶天皇浮嶋陵

長慶天皇は後村上天皇の第一皇子だが史料が乏しく、弟の後亀山天皇に譲位した後の動向はほとんどわからない。南北朝合一の際にも京都に同行した形跡はなく、晩年の地についても諸説ある。

地元の伝承では、長慶天皇は当地の王座屋敷に滞在されて崩御したとされ、浮嶋神社の西200mに古くから長慶天皇の御陵と伝えられる「浮嶋陵」がある。明治41年(1908)御陵参考地として申請、翌年宮内省書陵頭の山口鋭之助氏が現地調査を行い、後亀山天皇の五輪塔と同類同系統酷似であることから深い関心を持たれたという。

また、後南朝の河野宮忠義王も王座屋敷に2年間滞在したと伝えられ、その跡にある長慶河野宮霊社には長慶天皇と忠義王が祀られている。

牛渕祖霊社と荒魂社

もともと牛渕村の集落は浮嶋神社南方の古屋敷にあった。しかし重信川の度重なる水害のため、天和2年(1682)から天保8年(1837)まで156年をかけて神社北方の牛頭守に移転した。境内社の牛渕祖霊社は、古屋敷に残された祖霊や屋敷神を合祀したものである。また、祖国殉霊社として牛渕出身の護国英霊を併せ祀っている。

祖霊社の隣に鎮座する荒魂社は浮嶋神の荒魂を祀り、建速素戔嗚神を配祀する。

磐座

浮嶋神社磐座

磐座

本殿の庭に三つの自然石があり、磐座と称する。社殿が建てられる前の時代の祭祀で依り代とされたもので、中央の石に可美葦牙彦舅尊、左右に伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀ったと伝えられる。

三神御面

雨乞いの霊験で知られる三神御面は、河野氏から伝えられたという三体の古面である。能面より古い時代の田楽や猿楽の面とされ、鎌倉時代から室町時代にかけての面がほぼ完全な形で残っているのは珍しいという。美術工芸品としても貴重なもので、東温市の有形文化財に指定されている。

江戸時代には代官が藩主の命により祈雨祭を行い、しばしば瑞雨を得たことから社殿の改築、鳥居や築山の寄進などが行われたと伝えられる。

ところが寛文年間(1661~73)神主の相原宗俊が南梅本の三島宮(現在の徳威三島宮)を野田に遷し、新たに社家を起こした際、三神御面を野田に持参した。そのため、当社との間で御面争議が起こり、寺社奉行による裁定の結果、御面は牛渕と野田の隔年鎮座とされた。毎年12月には当社と野田の徳威三島宮の間で御面渡御祭が行われる。

写真帖

浮嶋神社北参道の鳥居

北参道の鳥居

浮嶋神社社号標

社号標

浮嶋神社北参道の注連柱

北参道の注連柱

浮嶋神社南参道の注連柱

南参道の注連柱

浮嶋神社西参道の鳥居

西参道の鳥居

浮嶋神社西参道の注連柱

西参道の注連柱

浮嶋神社社号標

社号標

浮嶋神社懐良親王の歌碑

懐良親王の歌碑

浮嶋神社長慶河野宮霊社

長慶河野宮霊社

浮嶋神社荒神社・祖霊社

祖霊社・祖国殉霊社と荒神社

浮嶋神社御神木

御神木

浮嶋神社駕籠

駕籠

浮嶋神社舞殿

舞殿

浮嶋神社舞殿内部

舞殿内部

浮嶋神社本殿

本殿

浮嶋神社磐座

磐座

浮嶋神社長慶天皇御陵

長慶天皇浮嶋陵

浮嶋神社長慶天皇御陵

長慶天皇浮嶋陵

メモ

東温市立南吉井小学校のすぐ近く、県道193号線の南側に鎮座する。社殿は南面しているが、県道に面する北側参道がメインになっているようで、鳥居も北側参道と長慶天皇陵に面する西側参道にはあるが、社殿正面の南側参道には注連柱が建つだけである。ただし、北側参道がメインになったのは県道との位置関係ではなく、牛渕村の集落が神社の南から北へ移動したことと関連するのかも知れない。

社殿はこの地方独特の構成になっており、拝殿の手前に舞殿がある。舞殿内部には多数の絵馬や社号額が掲げられている。てっきり舞殿を拝殿と思い込み、拝殿の写真を撮り忘れた。上の写真では、駕籠が懸けられている建物が拝殿である。

浮嶋神社の概要

名称 浮嶋神社
旧称 三島宮 三島大明神
御祭神 可美葦牙彦舅尊〔うましあしかびひこじのみこと〕
伊弉諾尊〔いざなぎのみこと〕
伊弉冉尊〔いざなみのみこと〕
大山積命〔おおやまづみのみこと〕
〈配祀〉
雷神〔いかづちのかみ〕
高龗神〔たかおかみのかみ〕
〈合祀〉
上筒男命〔うわつつのおのみこと〕
中筒男命〔なかつつのおのみこと〕
底筒男命〔そこつつのおのみこと〕
鎮座地 愛媛県東温市牛渕584番地
創建年代 不詳
社格等 国史見在社 旧県社
例祭 10月第2土・日曜日
神事・行事 1月1日/元旦祭
2月11日/開運祭
5月5日/菖蒲祭
7月30日/長慶天皇御陵祭・夏越祭
9月秋分の日/磐座祭
11月3日/牛渕祖霊祭
12月20日/御面渡御祭(隔年鎮座)

交通アクセス

□伊予鉄道横河原線「牛渕駅」より徒歩10分

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