第30番 百々山 善楽寺

30番善楽寺

名称 百々山 東明院 善楽寺
御本尊 阿弥陀如来
所在地 高知県高知市一宮しなね二丁目23-11 [Mapion|googlemap]
公式サイト http://www.zenrakuji.sakura.ne.jp/

【本尊真言】
おん あみりた ていせい からうん

【御詠歌】
人多くたち集まれる一ノ宮 昔も今も栄えぬるかな

【略縁起】
江戸時代までの30番札所は土佐国一宮・高賀茂大明神(土佐神社)であった。善楽寺はその別当寺として弘法大師が開創したと伝えられる。もう一つの別当寺である神宮寺とともに明治の神仏分離で廃寺となり、本地仏の阿弥陀如来を遷した安楽寺が30番札所を引き継いだ。昭和4年(1929)善楽寺が再興されるて以来、両寺が30番札所を称し、「遍路迷わせの札所」ともいわれたが、平成6年(1994)善楽寺を30番札所、安楽寺を奥の院とすることで正式に決着した。

目次

善楽寺の納経(御朱印)

  • 善楽寺の納経

    (1)

  • 30番善楽寺の納経

    (2)

(1)平成元年善楽寺で拝受した納経。揮毫は阿弥陀如来の種字「キリーク」に「阿弥陀如来」、寺名は「土佐一宮」。中央の宝印は火炎宝珠に「キリーク」、右上の朱印は「四国第三十番」、左下は「本尊奉安安楽寺・開創霊場善楽寺」。

(2)平成19年拝受の納経。揮毫は平成元年のものと同じ。中央の宝印は火炎宝珠に「キリーク」。右上の朱印は「四国第三十番」、左下は「土佐一宮善楽寺」。

江戸時代の納経

  • 天保11年の納経

    (1)

  • 天保12年善楽寺の納経

    (2)

  • 天保12年神宮寺の納経

    (3)

(1)天保11年(1840)神宮寺の納経。揮毫は「奉納一宮」「本尊阿弥陀如来」「別当百々山無量寿院」「神宮寺」。中央の宝印は火炎宝珠に阿弥陀如来の種字「キリーク」。右上の朱印は「四国三十番」、左下は「神宮密寺」。

(2)天保12年(1841)善楽寺の納経。揮毫は「奉納」「正一位高賀茂神社」「一之宮」「善楽寺」。中央の宝印は火炎宝珠に阿弥陀如来の種字「キリーク」。右上の朱印は「四国三十番」、左下は「百百□□」のようだが判読できない。

(3)天保12年、(2)と同じ納経帳の神宮寺の納経。揮毫は「奉納」「本尊阿弥陀如来」「土佐一之宮」「別当神宮寺」。朱印は天保11年の神宮寺の納経と同じ。

明治時代の納経

  • 明治38年安楽寺の納経

    (1)

(1)明治38年(1905)安楽寺の納経。当時、善楽寺は廃寺となり、高知の安楽寺(現・奥之院)が30番札所となっていた。版木押しで「奉納経」「本尊阿弥陀如来」「高知 安楽寺」。中央の宝印は火炎宝珠に阿弥陀如来の種字「キリーク」。右上の朱印は「四国第三十番」、左下は「土佐国安楽寺」。

善楽寺について

山号 百々山(どどざん)
寺号 善楽寺(ぜんらくじ)
院号 東明院(とうみょういん)
旧称 長福寺
旧札所 高賀茂大明神(土佐神社)・神宮寺/安楽寺
御本尊 阿弥陀如来
所在地 高知県高知市一宮しなね二丁目23番11号
創建年代 大同年間(806~10)
開山 弘法大師
宗派等 真言宗豊山派

覚え書き

上の江戸・明治の納経を見てわかるように、30番札所は非常に複雑な歴史を持っている。参照できる資料を見ても、なかなか納得できない状況である。

一般的な善楽寺の縁起によれば、善楽寺は大同年間(806~10)弘法大師が土佐一宮・高賀茂大明神(土佐神社)の別当として開創したとされる。以来、神仏習合の霊場として繁栄してきたが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、本尊・阿弥陀如来(高賀茂大明神の本地仏)や弘法大師像、仏具は29番国分寺に移された。その後、高知の安楽寺が再興されるにあたって国分寺より阿弥陀像を移して本尊とし、30番札所として公認された。昭和4年(1929)善楽寺が再興されると大師開創の霊場として30番札所であることを主張し、札所の正統性について争論となった。以来、2つの30番札所が並立していたが、平成6年(1994)より善楽寺を30番札所、安楽寺を奥の院とすることで正式に決着したとする。

明治以降の歴史についてはだいたい上記でよいのだが、江戸時代以前についてはかなり不正確といわざるを得ない。これは、土佐神社に神宮寺と善楽寺という二つの別当寺があったことが軽視されているためであろう。

江戸時代以前の30番札所は土佐一宮・高賀茂大明神であった。承応2年(1653)に四国を巡拝した澄禅の『四国辺路日記』は社僧として神宮寺と観音院の名を挙げているのだが、この観音院が万治元年(1658)に長福寺と改号、さらに享保6年(1721)に徳川家重の幼名(長福丸)をはばかって善楽寺と改めた。元禄2年(1689)に著された寂本の『四国徧礼霊場記』の挿絵には、高賀茂大明神の参道の左に神宮寺が、右側(現在と同じ位置)に長福寺が描かれている。
当時は神宮寺・善楽寺ともに納経を行っていたようで、中には上の天保12年(1841)の納経帳のように両方の寺で納経している例もある。

明治の廃仏毀釈による神宮寺・善楽寺の廃寺について、『ふるさと愛媛学』調査報告書「四国遍路のあゆみ(平成12年度)」によれば、まず神宮寺を善楽寺に合併し、それから善楽寺を廃寺にするという形で行われたという。高賀茂大明神の本地仏である阿弥陀如来などが国分寺に移されたのは既に述べたとおりである。

その阿弥陀如来像を国分寺から迎え、30番札所を引き継いだ安楽寺は延喜年間(901~23)菅原道真の長子・高視が配流先の土佐で父の死の知らせを受け、その菩提を弔うために開創したと伝えられる。寺号は道真の菩提寺である太宰府の安楽寺に因むとされる。高視は潮江天満宮も創建しているが、安楽寺との関係はよくわからないという。明治初めの廃仏毀釈で廃寺となったが、明治9年(1876)江ノ口村瑞応寺跡の現在地に再興された。

昭和4年(1929)一宮村の有志が埼玉県与野町(現・さいたま市中央区)にあった東明院の寺基を移す形で善楽寺を再興した。国分寺に預けられていた弘法大師像や仏具を引き取るとともに、弘法大師ゆかりの霊場として正統な30番札所であることを主張し、納経も行うようになった。
以来、2つの30番札所が並立し、先達も迷う「遍路迷わせの札所」とも言われた。昭和17年(1942)に安楽寺を奥の院とするという取り決めがなされたようだが、安楽寺が従わなかったようだ。その後、善楽寺を弘法大師開創の霊場、安楽寺を本尊奉安寺院として、どちらを参拝してもよいということで一応の解決を見た。平成元年の巡拝時はこの状態であったため、印も「本尊奉安安楽寺・開創霊場善楽寺」となっている。
そして平成6年(1994)元旦より善楽寺を30番札所、安楽寺を奥の院とすることで正式に決着し、四国八十八ヶ所すべての札所が確定した。

写真帖

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