第62番 天養山 宝寿寺

62番宝寿寺

名称 天養山 観音院 宝寿寺
御本尊 十一面観世音菩薩
所在地 愛媛県西条市小松町新屋敷甲428 [Mapion|googlemap]

【本尊真言】
おん まきゃ きゃろにきゃ そわか

【御詠歌】
さみだれのあとに出たる玉の井は 白坪なるや一宮かわ

【略縁起】
江戸時代までの札所は一之宮神社で、宝寿寺はその別当であった。寺伝によれば、天平年間(729~49)聖武天皇の勅願によって一宮を建立した際、その法楽所として建立された。大同年間(806~10)弘法大師が訪れた際、光明皇后(聖武天皇の皇后)の姿を象って十一面観音の像を刻み、本尊として安置した。元は中山川北岸の白坪にあったが、たびたびの水害のため新屋敷に移転。明治の神仏分離により一之宮神社と分離、大正10年(1921)鉄道が境内地を通ることとなり、伊予小松駅北側の現在地に移転した。

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宝寿寺の納経(御朱印)

  • 宝寿寺の納経

    (1)

  • 62番宝寿寺の納経

    (2)

(1)平成元年拝受の納経。揮毫は十一面観音の種字「キャ」に「大悲殿」(観世音菩薩を祀るお堂のこと)。中央の宝印は蓮台上の火炎宝珠に種字「キャ」。右上の印は「四国第六十二番」、左下は左下は「天羪山観音院宝寿寺」(羪=養)。

(2)平成18年拝受の納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。

江戸時代の納経

  • 天保11年の納経

    (1)

  • 天保12年の納経

    (2)

(1)天保11年(1840)の納経。版木押しで「六十二番霊刹」「伊豫国一宮大明神」「別当宝寿寺」。朱印はなく、右下に「古義密宗 宝寿寺(四隅に古義密宗、中央に宝寿寺)」の黒印。

(2)天保12年(1841)の納経。版木・黒印ともに天保11年のものと同じ。

明治時代の納経

  • 明治38年の納経

    (1)

(1)明治38年(1905)の納経。版木押しで「四国六十二番霊刹」「本尊観音薩埵」「豫州天羪山宝寿寺」。中央の朱印は蓮台上の宝珠に十一面観音の種字「キャ」。右上の印は「一之宮」、左下は「宝寿寺」。

宝寿寺について

山号 天養山(てんようざん)
寺号 宝寿寺(ほうじゅじ)
院号 観音院(かんのんいん)
旧札所 一之宮神社(一国一宮、一宮大明神)
御本尊 十一面観世音菩薩
所在地 愛媛県西条市小松町新屋敷甲428番地
創建年代 天平年間(729~49)
開基 聖武天皇
宗派等 高野山真言宗

覚え書き

江戸時代以前は一之宮神社(一国一宮・一宮大明神)が札所であり、宝寿寺が別当として納経を司っていた。
この寺の歴史は解釈が難しい。まずは縁起を見てみる。
天平年間(729~49)聖武天皇の勅願によって一宮を建立した際、伊予国一宮の法楽所として建立され、金剛宝寺と称した。聖武天皇は金光明最勝王経を奉納し、道慈律師〔どうじ りっし〕に講読させたと伝えられる。元は中山川北岸の白坪の地にあったという。
因みに一之宮神社の社伝では、天平宝字年間(757~765)大己貴命(=大国主命)の神託があり、聖武天皇の勅願によって周布郡井出郷白坪に一之宮神社が創建されたとするので、少し時代が下ることになる。
大同年間(806~10)弘法大師が巡錫した折、光明皇后をかたどって十一面観音を刻み、本尊として安置するとともに、寺号を宝寿寺に改めたとされる。また、国司・越智氏の夫人が難産で苦しんでいたため、境内の玉の井の水で加持したところ、無事に男児を出産した(その子を玉の井に因んで玉澄と名付けたという伝承もあるが、越智玉澄は奈良時代の人で、時代が合わない)。そのため、今も本尊は安産の観音としても信仰を集めるという。
中山川がたびたび氾濫したために境内が荒廃し、天養年間(1144~45)に再建された。これに因んで天養山と号するようになった。その後は寺運も興隆するが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐のため焼失。宝寿寺は寛永13年(1536)新屋敷(伊予小松駅の北側、現・一之宮神社境内)に移転再興された。そのため、巡礼者は白坪で一宮大明神に札を納めた後、中山川を渡って宝寿寺で納経を行い、香園寺・横峰寺の順で参拝したという。承応2年(1653)に四国を巡拝した澄禅大徳もこの順番で巡っている。
万治年間(1658~61)中山川の洪水の被害を避け、旧地に残っていた一宮大明神の社を宝寿寺境内の現社地に遷座。これに伴い、巡拝ルートが横峰寺-香園寺-一宮(宝寿寺)に変わったと『四国辺路道指南』に記されている。
明治維新の神仏分離で一宮と宝寿寺は分離。宝寿寺は廃寺とされて香園寺に合併されたが、明治10年(1877)四国遍路の行者である大石龍遍上人によって再興された。さらに大正10年(1921)鉄道が境内を通ることになったため、伊予小松駅南側の現在地に移転した。
さて、問題は「伊予一国一宮」の解釈である。一宮の法楽所として創建されたという由緒により、境内入口には「一国一宮」の標識が建つ。その一宮は、駅をはさんで北側に鎮座する一之宮神社で、「一国一之宮神社」の社号標が建つが、旧新屋敷村鎮守の小さな社である。
言うまでもなく、伊予国一宮は大三島の大山祇神社であり、札所としては55番南光坊(旧札所は別宮大山祇神社)ということになる。一宮が入れ替わったということもない。
これについて一之宮神社の宮司さんに尋ねたところ、元は大山祇神社の遙拝所だったのだろうと考えておられるようであった。旧鎮座地の白坪は、現在でこそ干拓のために海から遠くなっているが、かつては中山川の河口であり、当地方から大三島に向かう船着き場だったのだろうとおっしゃっていた。『空性親王四国霊場御巡行記』にも大三島から勧請されたと思われる多数の一之宮が記されており、その一つだったのではないかと思われる。

写真帖

  • 寺号標

    寺号標

  • 大師堂

    大師堂

  • 仮本堂

    仮本堂


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