徳島縣護國神社(徳島県護国神社)は、徳島県出身の護国英霊を祀る旧内務大臣指定護国神社。明治12年(1879)眉山公園に招魂碑が建立されたことを創祀とする。明治38年(1905)徳島中央公園の城山山頂に移転。昭和13年(1938)社殿を造営して徳島招魂社となり、翌年、徳島縣護國神社と改称された。平成15年(2003)徳島市雑賀町の現社地に遷座した。
正式名称 | 徳島縣護國神社〔とくしまけん ごこくじんじゃ〕 |
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御祭神 | 徳島県出身の護国英霊34,368柱並びに徳島県出身殉職自衛官24柱 |
社格等 | 旧内務大臣指定護国神社 別表神社 |
鎮座地 | 徳島県徳島市雑賀町東開21-1 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://gokoku-jinja.jp/ |
御朱印
(1)平成19年拝受の御朱印。中央の朱印は「徳島県護國神社之印」、その上は十六八重菊に桜の神紋。
昔の御朱印
(1)昭和16年の御朱印。朱印は「徳島縣護國神社」。
御由緒
徳島縣護國神社は、徳島県出身の護国英霊を祀る旧内務省指定護国神社である。
明治10年(1877)国瑞彦神社において、初めて臨時招魂祭が斎行された。明治12年(1879)には英霊の恒久的奉斎のため、眉山公園内に招魂碑が建立された(現在、神武天皇像があるところ)。これをもって当社の創祀とする。
明治38年(1905)徳島市が蜂須賀家から徳島城址を買い取り、日露戦争の戦勝記念として徳島公園(現在の徳島中央公園)の建設を始めた。翌明治39年(1906)招魂碑が眉山より徳島公園内城山山頂の本丸跡に移され、日露戦争後初めての招魂祭がここで行われた。
昭和13年(1938)社殿を造営して「徳島県招魂社」が創建される。翌昭和14年(1939)内務省令により徳島縣護國神社と改称し、内務大臣指定護国神社となった。
昭和20年(1945)7月、米軍による徳島大空襲で社殿等を焼失したが、昭和33年(1958)県民挙げての奉賛により再建された。昭和53年(1978)には御創社百周年事業として境内を整備、昭和63年(1988)には御再建三十周年記念事業として社殿銅板葺替工事が行われた。
しかし、当時の鎮座地である城山頂上は徳島市からの借地であり、また史跡文化財保護地でもあるため、自動車道の整備もできなかった。高齢化する御遺族や崇敬者の参拝に不便を来すことも多く、平成に入った頃より再度の遷座の話が持ち上がっていた。
これに対して、平成12年(2000)徳島市雑賀町在住の川崎阿佐惠氏より境内地の寄進を受け、平成14年(2002)現社地に仮殿遷座祭を斎行。本殿・社務所等を新築、拝殿・手水舎・慰霊碑等を移設し、平成15年(2003)正遷座祭を執り行った。
川崎氏は、境内にある顕彰碑によれば三好郡池田町(現・三好市)出身の実業家・敬神家。昭和53年(1978)当地に月映神座を奉斎、昭和56年(1981)には出雲大社より御神像を拝戴し、当地に大國神社を創建した。平成10年(1998)からは当地に居住して祭祀に専念していたということである。
現在でも境内には大國神社(御祭神:大國主大神)が鎮座し、縁結び・商売繁盛・薬祖の神・隠り世の神として信仰を集めている。
平成16年(2004)石造りとしては四国最大級の大鳥居が竣工。さらに平成26年(2014)徳島県戦没者記念館が開館、また神社本庁の別表神社に加列した。
写真帖
メモ
徳島市の郊外、勝浦川の河口に近い徳島県立工業技術センターの東隣にある。参拝時はまだ竣功から4年ほどで、快晴に恵まれたこともあり、清々しい印象を受けた。
なお、公式サイトの境内図を見ると、社殿前の二つの鳥居が一の鳥居・二の鳥居で、境内入口の大鳥居は別扱いのようである。
徳島縣護國神社の概要
名称 | 徳島縣護國神社 |
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旧称 | 招魂碑 徳島県招魂社 |
御祭神 | 徳島県出身の英霊34,368柱 〈相殿〉 徳島県出身の殉職自衛官24柱 |
鎮座地 | 徳島県徳島市雑賀町東開21番地の1 |
創建年代 | 明治12年(1879) |
社格等 | 旧内務大臣指定護国神社 別表神社 |
例祭 | 11月2日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月4日/新年祭 1月15日/左義長 4月第1日曜日/永代神楽際 6月30日/大祓式 8月1日~15日/みたままつり(神賑行事は3日間) 8月15日/平和祈念祭 9月28日/神恩感謝祭 10月27日/大國神社例祭 11月1日/合祀祭 12月31日/大祓式 |
交通アクセス
□JR牟岐線「文化の森駅」より徒歩約30分
□JR高徳線・徳島線「徳島駅」よりバス
■徳島バス横瀬西・坂本上・川口営業所・橘西など行き「新浜」下車徒歩約10分