日尾八幡神社は、天平勝宝4年(752)孝謙天皇の勅により宇佐八幡宮より御分霊を勧請し、久米八幡宮と称したと伝えられる。旧別当は四国49番浄土寺で、文治年間(1185~90)源頼朝が再興、承久年間(1219~22)河野通信が社殿の改築を行った。松山八社八幡の一社に数えられ、河野氏や加藤嘉明、松平(久松)氏など歴代領主から篤く崇敬された。
正式名称 | 日尾八幡神社〔ひおはちまんじんじゃ〕 |
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御祭神 | 品陀和気命 帯仲日子命 多紀理毘売命 狭依毘売命 多紀都毘売命 大帯姫命 健内宿禰命 伊予比売神 饒速日命 猿田毘古大神 |
社格等 | 旧県社 |
鎮座地 | 愛媛県松山市南久米町2 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1) | (2) |
(1)平成21年拝受の御朱印。朱印は「日尾八幡神社」。
(2)平成28年拝受の御朱印。朱印は平成21年のものと同じで、社号等はスタンプ。
御由緒
御祭神
〈西玉殿〉
■品陀和気天皇(応神天皇) ■帯仲日子天皇(仲哀天皇)
〈中玉殿〉
■多紀理毘売命 ■狭依毘売命 ■多紀都毘売命
〈西玉殿〉
■大帯姫命(神功皇后)
〈西玉殿側殿〉
■健内宿禰命
〈中玉殿〉
■伊予比売命 ■饒速日命 ■天道日女命
〈東玉殿側殿〉
■猿田毘古大神 ■伊予十城別小千王命
神社でいただいた由緒書(日尾八幡神社縁起)に従う。『平成「祭」データ』もこれと同じだが、神社境内の由緒書には天道日女命と伊予十城別小千命の名がない。
由緒(歴史)
日尾八幡神社は、旧南久米村と鷹子村の境、日王山の中腹に鎮座する。古くは久米八幡宮と称したが、鎮座地に因んで日王八幡と称するようになり、その後、日尾八幡宮と改めたという。当初は四国49番札所の西林山浄土寺、後にその支院の八幡山如来院が別当を務めた。
社伝によれば、天平勝宝4年(752)孝謙天皇の勅により、当国の僧・慧明が宇佐八幡宮より御分霊を勧請し、久米八幡浄土寺と号した。天平神護2年(766)社殿が完成し、三輪田大神朝臣久米麿と高市古麿を斎主として奉仕させた。
神護景雲3年(769)称徳天皇は勅使を遣わして神衣を奉納し、光仁天皇は宝亀7年(776)と9年(778)の二度にわたって奉幣したと伝えられる。
文治年間(1185~90)源頼朝により再興、承久年間(1219~22)河野通信が社殿の改築を行うが、応永年間(1394~1428)火災で社殿・旧記等悉く焼失。永享年間(1429~41)河野氏によって再建された。
文明13年(1481)河野刑部大輔通治は久米八幡・浄土寺の寺社領を犯した給人を処罰し、以下のような掟を定めて簡板を渡した。
久米八幡同浄土寺者、孝謙天皇勅願寺、兵衛佐頼朝以来御判形並四郎通信代々判形有之、然処応永年中八幡宮炎焼畢、其時彼重書等悉紛失、依此條無偽旨、衆徒以誓文申條為後亀注置者也。
一、諸給人等社領坊領押妨之義、可停止之事
一、保免之内領銭棟別等、可免許、於保外領銭任先例可有其沙汰事
一、社人等、毎違背神主義云々、太不可然自今以後可為神主進退之事
一、於榜示内、殺生可禁断之事
右條々若於違犯之輩者、可処科者也、依而下知件如
文明十三年七月十日 刑部大輔 印
天正13年(1585)河野氏が滅亡すると当社も荒廃するが、慶長年間(1596~1615)加藤嘉明が松山城を築き、近郷の八幡宮八社(松山八社八幡)を選んで武運長久を祈願した際、当社もその一社となり、以来、松山藩歴代藩主の篤い崇敬を受けた。
現在の本殿は文政11年(1828)、拝殿は寛政元年(1789)の再建である。
明治5年(1872)郷社に列格、明治12年(1879)県社に昇格した。
なお、当社の社伝では、中玉殿に祀られる伊予比売命は伊予比古命(伊豫豆比古命神社の御祭神)と夫婦神で、往古はともに久米郡神戸郷古矢野神山(小屋峠村永尾、現在の松山市小野町)に鎮座していたと伝えられる。その後、洪水で社殿が崩壊したため、平井谷村明神ヶ鼻(松山市平井町)に遷座したとされる。
延喜17年(917)再び洪水のために御神体が流出。伊予比古命の御神体は天山村(松山市天山町)の縦淵に流れ着いた後、居相村に遷されて伊豫村大明神(伊豫豆比古命神社)として祀られ、伊予比売命の御神体は日瀬里村(松山市久米窪田町)の龍神淵で引き上げられ、久米八幡宮に合祀されたという。
この故事によるものか、古くから旧暦1月8日の夜、日尾八幡神社の神輿は岸村(松山市来住町)の薬師堂へ、伊豫豆比古命神社の神輿は土居村(松山市北土居町)の薬師堂へ渡御していた。いつの頃からか日尾八幡神社の渡御は廃されたが、伊豫豆比古命神社では椿祭の「おしのびの渡御」として現在も続けられている。また明治の頃までは日尾山の頂上と伊豫豆比古命神社で同時に火を灯して「合わせ火」をする行事があったとのことである。
黒田霊社
境内末社の黒田霊社は参道石段脇にある小祠で、加藤嘉明の家臣・黒田九郎兵衛を祀る。
関ヶ原の合戦に東軍として従軍した松前城主・加藤嘉明の留守を狙い、毛利軍3000余騎が襲来、河野氏の遺臣・平岡善兵衛らがこれに呼応して一揆を起こした。しかし三津浜に上陸した毛利勢は松前城の留守を預かる佃十成との合戦に敗れたため、平岡と合流して久米村の如来院(日尾八幡の別当寺)に立て籠もった。
佃は松前勢を率いて如来院を攻撃したが、平岡は一揆の猟師たちに下知して鉄砲を撃たせ、これを防いだ。松前勢の先頭に立った黒田九郎兵衛は山門を打ち破り、寺内に乱入して毛利勢を討ち取ったが、一揆勢の銃撃により命を落としたという。
後に久米の村人が九郎兵衛を悼み、戦死した場所に黒田塚を設けた。風熱を患う人が祈願すると平癒するとして信仰を集め、祠を建てたと伝えられる。
王子八幡神社と星ヶ岡神社
日尾八幡神社の氏子各村にはそれぞれの氏神が祀られ、日尾八幡神社の境外末社となっている。王子八幡神社(松山市星岡三丁目)もその一社で、松山市星岡町に鎮座する。御祭神は大雀命(仁徳天皇)と土居通増公・得能通綱公。
貞観年間(859~77)源寛(嵯峨天皇の皇子)が伊予守として赴任したとき、星の岡に登り、神籬を立てて八幡神に神護を祈った古蹟と伝えられる。
土居通増と得能通綱は河野氏の一族で、南朝の忠臣。元弘3年(1333)隠岐を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げた後醍醐天皇に呼応して挙兵し、伊予国守護・宇都宮貞宗の拠る府中城を攻略したり、長門探題・北条時直の軍を石井浜で撃退するなどの活躍をした。
特に壮絶な白兵戦で星岡を占領した北条時直の軍を打ち破った星岡合戦での勝利は、京都に喧伝されて幕府関係者の心胆を寒からしめたという。
昭和17年(1942)土居通増・得能通綱を御祭神として星ヶ岡神社が創建され、県社に列格した(官報昭和17年6月11日号では星岡神社となっている)。これを現在は王子八幡神社に合祀しているようである。
三輪田米山
僧明月・僧懶翁とともに伊予の三筆と称される幕末・明治の書家。文政4年(1821)日尾八幡神社の神職・三輪田清敏の長男として生まれ、20歳で家職を継いだ。国学者の大国隆正に国学・漢学・和歌を学ぶ。
神職として務めるかたわら書の研究を続け、隠居の際に揮毫した当社の注連柱と社号標で名声を不動のものとした。以来、松山周辺を中心に3万点に及ぶ揮毫を残し、神社の社号標や注連柱、幟なども数多く残っている。
書風は天衣無縫、豪放磊落。本来は謹厳実直な神職であったが、真面目な性格では良い字は生まれないと二升三升の酒を浴びるように飲み、倒れる寸前で書いたときに筆を執ったという。
明治41年(1908)88歳で没する。墓は浄土寺にある。
写真帖
メモ
伊予鉄横河原線の久米駅からほど近く、旧国道11号線の交差点に面して日尾八幡神社の赤い鳥居が建つ。北に向かう道は繁多寺から石手寺を経て道後温泉方面に向かう遍路道である。実家から松山に向かうときには必ずこの前を通るので、子どもの頃から印象に残っているのだが、実際に参拝したのは平成元年、四国八十八ヶ所を巡拝したときである。
初めて御朱印をいただいたのは平成21年だが、この時は宮司さんがお留守で朱印のみを押していただいた。
二度目の御朱印拝受は平成28年の大晦日。宮司さんは氏子さんと正月の準備で忙しくされていたが、快く対応して下さった。また、この時に所在のわからなかった旧県社・星ヶ岡神社が星岡町の王子八幡神社に合祀されていることも確認できた。
日尾八幡神社の概要
名称 | 日尾八幡神社 |
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旧称 | 久米八幡宮 |
御祭神 | 品陀和気命〔ほんだわけのみこと〕 帯仲日子命〔たらしなかつひこのみこと〕 多紀理毘売命〔たぎりひめのみこと〕 狭依毘売命〔さよりひめのみこと〕 多紀都毘売命〔たぎつひめのみこと〕 大帯姫命〔おおたらしひめのみこと〕 健内宿禰命〔たけしうちのすくねのみこと〕 伊予比売命〔いよずひめのみこと〕 饒速日命〔にぎはやひのみこと〕 猿田毘古大神〔さるたひこのおおかみ〕 |
鎮座地 | 愛媛県松山市南久米町2番地 |
創建年代 | 天平勝宝2年(752) |
社格等 | 旧県社 |
例祭 | 10月5日 |
神事・行事 | 1月1日/新年祭 旧1月8日/初祭礼 3月17日/祈年祭 5月3日/春祭 7月30日/夏越祭 11月23日/新嘗祭 ※『平成「祭」データ』による |
巡拝 | 松山八社八幡(第三番) |
交通アクセス
□伊予鉄横河原線「久米駅」より徒歩5分