代田八幡神社は代田村の鎮守である。天正18年(1590)世田谷城主・吉良氏が没落した後、その家臣7家は代田村に土着、帰農した。翌19年(1591)世田谷八幡宮より御分霊を勧請し、鎮守としたのが始まりと伝えられる。
正式名称 | 八幡神社〔はちまんじんじゃ〕 |
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通称 | 代田八幡神社〔だいた はちまんじんじゃ〕 |
御祭神 | 応神天皇 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都世田谷区代田3-57-1 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1) | (2) |
(1)平成22年拝受の御朱印。中央の朱印は「八幡神社」。
(2)平成30年拝受の御朱印。中央の朱印は三つ巴の神紋。左下は「代田八幡」。
御由緒
代田八幡神社は代田村の鎮守。別当は真言宗の代永山円乗院(代田2)であった。
天正18年(1590)小田原の役で後北条氏が滅亡し、世田谷城の吉良氏が没落した後、吉良氏の家臣7家(清水・秋元・斎田(2家)・柳下・山田・大場)が現在の円乗院の辺りに土着し、土地を開墾した。
翌天正19年(1591)、代田村草分けのこの人々が世田谷八幡宮から御分霊を勧請した。これをもって当社の創祀とする。なお、円乗院も彼らが菩提寺として創建したものと考えられている。
天和元年(1681)円乗院の二代法印定賢と氏子らによって現在の地に社殿が建立された。
『新編武蔵風土記稿』には、「本社は小山の上に建てり。宮作りにて横四尺に長さ六尺八寸。覆屋は二間四方」とある。
明治7年(1874)村社に列格。昭和16年(1941)付属社であった大原稲荷神社が村社に昇格し、独立した。
昭和20年(1945)戦災で社殿、神楽殿、社務所などすべて焼失。昭和24年(1949)に社殿、昭和35年(1960)に神楽殿、参集殿が再建された。
平成23年(2011)拝殿の改築が行われた。
拝殿前の鳥居は天明5年(1785)に建てられたもので、世田谷区内に残る鳥居では喜多見氷川神社の二の鳥居に次いで古く、区の有形文化財に指定されている。
毎年1月に行われている三土代会の「代田の餅搗き」は餅搗歌を歌いながら6人または8人で餅をつく。8人で搗く形式は代田独特の形式で、区の無形民俗文化財に指定されている。
また、御神宝として「石棒」があり、『新編武蔵風土記稿』にも触れられている。長さ4尺2寸(約126センチ)の雷槌型で、附近から出土したものとのこと。江戸時代、当地出身の学者・斎田東野が『石棒の記』を著したという。
境内風景
環七沿いの大鳥居。本来の参道は拝殿正面の石段だが、現在はこちらがメインの参道になっているようだ。
社号標。
環七側の参道から境内に入ると御神木の2本の銀杏の木がある。間に注連縄が張られて、注連柱のようになっている。
神楽殿。昭和35年(1960)の再建。
拝殿正面の鳥居。天明5年(1785)の奉納で、区内では2番目に古い(区指定有形文化財)。
拝殿前の石段。本来はこちらが表参道だったと思われる。
平成23年(2011)に改築された拝殿。
石段を上りきると、参道の両側に手水舎がある。こちらは参道東側の手水舎。
参道西側の手水舎。
拝殿前の狛犬。
拝殿。流造の拝殿の屋根に神明造の屋根が重ねられた独特の形式。上の神明造の屋根は旧拝殿の屋根を流用しているようだ。
旧拝殿(平成22年撮影)。
本殿。神明造で、千木は外削ぎ。
本殿脇に境内社の御嶽社が鎮座する。『平成「祭」データ』には記載がないため、御祭神などは不詳。
日露戦役記念碑。揮毫は乃木希典。
メモ
小田急線世田谷代田駅から西に向かい、環状7号線を渡ったところに鎮座する。こぢんまりとした印象の境内だが、環状7号線の工事のために境内の約半分が収容されたそうで、かつてはもっとゆったりとした感じだったのであろう。
代田八幡神社の概要
名称 | 八幡神社 |
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通称 | 代田八幡神社 |
御祭神 | 応神天皇〔おうじんてんのう〕 |
鎮座地 | 東京都世田谷区代田三丁目57番1号 |
創建年代 | 天正19年(1591) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 9月第3土・日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月3日/節分祭 2月20日/祈年祭 6月20日/夏越大祓式 11月25日/新穀感謝祭 12月20日/年越大祓式 12月31日/古神札焼納祭 |
交通アクセス
□小田急小田原線「世田谷代田駅」より徒歩約4分
□京王井の頭線「新代田駅」より徒歩約9分
参考資料
・神社由緒書
・『平成「祭」データ』
・世田谷区公式サイト
・日本歴史地名大系『東京の地名』(平凡社)
・『世田谷区の歴史』荻野三七彦ほか(名著出版)
更新履歴
2011.03.02.公開
2017.01.25.更新、WPへ移行。
2027.07.20.改訂、御朱印を追加、画像を差替え。