愛宕神社は、慶長8年(1603)徳川家康の命により、江戸の防火のため愛宕山上に祀られた。幕府の崇敬篤く、徳川秀忠は朱印地200石を寄進した。諸大名もこれに倣って当社の分霊を各地に勧請したという。正面・男坂の石段は、徳川家光の命により曲垣平九郎が馬に乗ったまま上下し、愛宕山上の梅の枝を献上したという故事から「出世の石段」として名高い。
正式名称 | 愛宕神社〔あたごじんじゃ〕 |
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御祭神 | 火産霊命 〈相殿〉罔象女命 大山祇命 日本武尊 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都港区愛宕1-5-3 [Mapion | googlemap] |
公式サイト | http://www.atago-jinja.com/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「愛宕神社」、右上に「芝・愛宕山」。
昔の御朱印
昭和戦前の御朱印
(1)昭和5年の御朱印。中央の印は「愛宕神社」、現在のものと似ているが、少し違っている。左下の印は「東京芝愛宕神社社務所之印」。
江戸時代の納経(御朱印)
(1)文政4年(1821)の納経(御朱印)。揮毫は「奉納経 全部」「愛宕山神社」「知事」。中央の宝印は判読できない。右上の印は「愛宕山」。左下も判読しづらいが、愛宕神社の別当であった「圓福寺」ではないかと思われる。
御由緒
愛宕神社は、鉄道唱歌にも「愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として」と歌われ、名勝として名高い芝の愛宕山に鎮座する。愛宕山は標高26mで、23区の中でもっとも高い天然の山である。
徳川家康の命により、江戸の防火のために祀られた。慶長8年(1603)仮殿を建立、同15年(1610)本社・末社・仁王門・坂下総門などが造営された。幕府の崇敬篤く、二代将軍・秀忠は社領200石を寄進した。各大名はこれに倣い、当社の分霊をそれぞれの地元に祀ったという。愛宕神社の総本社といえば京都市右京区の旧府社(別表神社)・愛宕神社だが、当社の公式サイトによれば、幕府は双方を同格とする通達を出したという。
当社にはエピソードが多い。神社正面の男坂の石段は「出世の石段」として知られる。寛永11年(1634)三代将軍家光が、二代将軍・秀忠の命日の法要のため増上寺に参詣した。その帰り、愛宕山の麓を通りかかった際、山上で美しく咲き誇る源平の梅を見て、誰か馬で男坂を登り、源平の梅を手折って献上するように命じた。誰もが男坂の急勾配に怯む中、讃岐丸亀藩主・生駒高俊の家臣である曲垣平九郎が巧みに馬を操って男坂を登り、梅を手折って、再び坂を下り、見事、将軍に梅を献上した。家光はたいそう喜び、「日本一の馬術の名人」とのお褒めの言葉を賜り、その名は天下に鳴り響いたという。
この話は講談「寛永の三馬術」に出てくる話で、実話ではないとも言われるが、明治以降、3人が馬で男坂の石段を上がり下りしており、あながち嘘とは言えないとされる。その3人とは明治15年(1882)石川清馬(強心流馬術師)、大正14年(1925)岩木利夫(参謀本部部員)、昭和57年(1982)渡辺隆馬(スタントマン)である。
また、万延元年(1860)桜田門外の変で大老・井伊直弼を襲撃した水戸藩士は、当社に集まり、神前に加護を祈念してから出発したという。
慶応4年(1868)官軍の参謀・西郷隆盛との交渉に当たった幕府の軍事総裁・勝海舟は、西郷を誘って愛宕山に登り、眼下に広がる江戸の風景を見せて、戦火の悲惨と無益を説き、西郷をして江戸無血開城に同意せしめたことでも知られる。
写真帖
メモ
現在の愛宕山は愛宕神社や青松寺、NHK放送博物館、愛宕グリーンヒルズ、フォレストタワーなどが共存する不思議な空間である。周囲には東京タワーや超高層ビルが立ち並ぶ東京のど真ん中だが、愛宕神社の境内は深い緑に包まれ、別世界に紛れ込んだかのようである。都会のオアシスというのは、こういう空間をいうのだろう。とはいえ、土地柄か、参拝客(観光客?)も多いようである。
愛宕神社の概要
名称 | 愛宕神社 |
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旧称 | 愛宕大権現 |
御祭神 | 火産霊命〔ほむすびのみこと〕 〈相殿〉 罔象女命〔みずはのめのみこと〕 大山祇命〔おおやまづみのみこと〕 日本武尊〔やまとたけるのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都港区愛宕一丁目5番3号 |
創建年代 | 慶長8年(1603) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 9月22日~24日(出世の石段祭) |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月7日/七草火焚き祭り 2月3日/節分お福分け祭り 6月23日~24日/千日詣り(ほおづき縁日) 12月23日/新嘗祭 12月31日/除夜祭 |
交通アクセス
□神谷町駅(日比谷線)より徒歩5分
□虎ノ門駅(銀座線)より徒歩8分
□御成門駅(都営三田線)より徒歩8分
□新橋駅(JR)より徒歩20分