浄土真宗本願寺派と大谷派では、昭和60年代もしくは平成初頭あたりから宗派の方針として御朱印を授与していない。
「浄土真宗では、教義上の理由から伝統的に御朱印を授与していない」などということがまことしやかに言われているため、それを真に受けている人が多い。実際には、浄土真宗でも本願寺派・大谷派以外では授与しているし、本願寺派・大谷派の寺院でも授与しているところがあるのだが、それは例外的、あるいは逸脱的だと考えられているように思われる。
しかし、私がブログに江戸時代や昭和初期の浄土真宗の御朱印をアップし、浄土真宗でも他宗と同じく御朱印を授与していたということを紹介して以降、御朱印を授与しないのは浄土真宗の伝統ではなく、近年の本願寺派と大谷派の方針であるという事実が少しずつ浸透しているようである。
浄土真宗の御朱印は、神道や日蓮宗を含む他宗派の御朱印とは異なる起源と伝統をもっている。本願寺派などでは、御朱印は納経の証しであり、その目的は先祖供養だから真宗の教えに合わないというような理由を挙げる。しかし、浄土真宗の御朱印の歴史について正しい知識があれば、他宗の御朱印を根拠として自分たちの御朱印を否定するような愚かなことはしないだろう。
正しい知識がないための誤解によるものか、わかった上での意図的なものかはわからないが、誤った情報によって伝統が損なわれるのがよいこととは思えない。授与するにせよ、市内にせよ、まず正しい知識を持つことが大切だと思われる。
浄土真宗の御朱印の起源
すでに述べたように、御朱印は六十六部廻国聖が法華経を奉納した証しとして受け取っていた「納経請取状」を起源とする。これが西暦1700年頃に納経帳に記帳してもらう形に変わり、現代の御朱印へとつながっている。
これに対して、浄土真宗の御朱印は、真宗の門徒が親鸞聖人や蓮如上人の旧跡を巡拝した際、それぞれの寺院でいただいた参拝記念の刷り物(現代でいうパンフレットのようなもの)を起源としている。
筆者の手許に寛政2年(1790)と寛政7年(1795)の真宗の順拝帳があるが、どうもこの頃が刷り物の頒布から帳面に記帳する形式へ変わっていく過渡期だったらしく、特に寛政7年のものには変化の各段階が揃っている。
この時代は、他宗派において納経帳が一般庶民に広がった時代であり、それが真宗にも波及して順拝帳に変わっていったのではないかと考えられる。
江戸時代の順拝帳
それでは、その変化の跡をたどってみよう。
寛政7年の順拝帳にはさまれていた、富山県高岡市伏木古国府の雲龍山勝興寺(本願寺派)の刷り物。佐渡にあった順徳天皇の御願寺・勝興寺(殊勝誓願興行寺)以来の由緒を書いている。
同じく寛政7年の順拝帳にはさまれていた、石川県加賀市打越町の孤嶺山勝光寺(本願寺派)の刷り物。内容は簡単な由緒と寺宝のリスト。これらが真宗の御朱印の起源である。
勝興寺のものの最後には「役僧」とあり、「執事」の印が押してあり、勝光寺のものには「当役 恩長寺」の署名に「役僧」の印が押されている。これは六十六部の納経請取状や納経帳に似ており、単なる記念として配布したものとは考えられない。
金森敦子氏の『きよのさんと歩く大江戸道中記』は、羽州鶴岡の商家の主婦・清野の旅日記を読み解いたものだが、真宗門徒である清野は各地の親鸞聖人縁の霊跡に参拝し、志納金を納めて霊宝や御像を拝観している。そういう参拝者に対し、領収書を兼ねて渡したのが元の形ではないだろうか。
これらが本来の形であったが、六十六部の納経帳が一般庶民に普及したのに影響され、帳面を持参する形に変わっていった。
滋賀県犬上郡豊郷町の兜率山唯念寺(大谷派)。上の勝興寺タイプの刷り物をそのまま順拝帳にしたような形式で、天平年間に行基菩薩が開創、永正年間真宗に改宗したという由緒を記す。最後に当番寺院の署名捺印がある。
しかし、その場でこれだけの内容を書くのは大変だったはずで、六十六部の納経帳と同じく内容が次第に省略されていく。
滋賀県長浜市内保町の湯次山誓願寺(本願寺派)。佐々木高綱の五男・幡谷高継が親鸞聖人から唯弘の名を賜り、白鳳年間に創建されたという弓月寺の後身・蓮乗寺に住み、覚如が湯次泰経を二世に定め、了慶の名と誓願寺の寺号を与えたとの伝承を持つ。
揮毫は「大祖聖人御直弟二十四輩唯弘」「祖師上人六十二才御自作木像」で、ごく簡略化した由緒と最も重要な寺宝を記し、「其外略之(その外はこれを略す)」とする。ただし、二十四輩に唯弘は入っていないようだ。左下は「役者中」。
滋賀県守山市金森町の金園山善龍寺(現在は善立寺、大谷派)。蓮如上人の高弟・道西の開基で、寛正の法難の後、蓮如上人は当地に留まり、湖南に教えを広めた。
揮毫は「江州金森御坊」「蓮如上人御旧跡」「道西坊古跡也」で、最後に「霊宝略之」とある。
さらに省略が進んだ福井市の本願寺福井別院。右の「本願寺懸所」が東別院(東御坊)で、左の「本願寺役所」が西別院(西御坊)である。東別院の最後の署名は「役者」、西別院は「当番 円覚寺」。
順拝帳に貼り付けられるサイズの刷り物を授与するところも多かったようである。
福井城下の表御堂町にあった昌向山真宗寺(本願寺派、現在は鯖江市に移転)。簡単な由緒と寺宝を記しており、左下には「執事 光養寺」とある。
滋賀県大津市本堅田の夕陽山本福寺(本願寺派)。堅田門徒の中心で、寛正の法難の際、大谷本願寺を破却された蓮如上人を匿った。中央に大きく「蓮如上人御旧跡」、両脇に主要な寺宝、左端に「此外宝物数品略之」と記す。左下は「当番役者」で、「夕陽仙」の刻印を押す。サイズに合わせ、内容が省略されていった様子が窺える。
刷り物を授与する形式でも、内容の省略は進んだ。
滋賀県長浜市の長浜御坊大通寺(長浜別院、大谷派)。中央に大きく「御坊」の文字と「大通」の黒印。
こちらは福井県鯖江市の真宗誠照寺派本山・上野山誠照寺。中央に「上埜山誠照寺」。
もともと刷り物から始まったからかもしれないが、真宗ではかなり後の時代まで刷り物を授与する形式が残ったようである。
こちらは安政6年(1860)の雲龍山勝興寺。「順徳帝勅願所」とあるだけで、上の寛政7年のもののような詳細な由緒は省略されている。
同年の夕陽山本福寺。版は変わっているが、内容は寛政7年のものとほぼ同じである。
昭和初期の御朱印
明治の真宗の順拝帳については、手許に資料がないため確認できない。しかし、この頃にも二十四輩や親鸞聖人御旧跡の案内所が発行されており、江戸時代と同じような形で続いていたと思われる。
手許の資料で確認できるのは昭和以降のものである。
昭和2年(1927)西本願寺の御朱印。当時は本派本願寺と呼ばれることが多かった。
同じ年の東本願寺の御朱印。八方崩しの書体で「本願寺」のようである。当時は大谷派本願寺と呼ばれることが多かった。
昭和4年(1929)大阪の北御坊、本願寺派の津村別院。黒印は「津村御坊」。
同年、大阪の南御坊、大谷派の難波別院。こちらも黒印だが、判読できない。
昭和5年(1930)高岡市の雲龍山勝興寺。寛政7年から135年後、安政6年から70年後のものである。かつては刷り物を授与する形だった勝興寺も朱印を授与するようになっていた。
戦前、東西本願寺は積極的に海外布教を行っていたが、それら外地の寺院でも御朱印を授与していた。
昭和6年(1931)哈爾浜西本願寺。日露戦争で特殊工作に従事し、ロシア軍に捕縛されて銃殺された横川省三と沖禎介の遺骨を奉安していたようである。
同じ頃と思われるが、米国本土における本願寺派の布教組織・北米仏教団本部の御朱印。北米仏教団は、昭和19年(1944)に米国仏教団(BCA)と改称している。
同じ頃、ロサンゼルス本派本願寺と思われる。シールの内部と朱印には「本願寺佛教會」、シールの外周には“HONGUWANJI BUDDHIST CHURCH”、”LOS ANGELES,CAL”とある。
同じ集印帖に、同じ形式の本願寺派シアトル仏教会の御朱印があり、米国の本願寺派寺院で統一した形式の御朱印が授与されていたことを覗わせる。
平成以降の様子
このように、浄土真宗においても他宗と同様に御朱印が授与されていたのだが、昭和60年代か平成の初め頃、本願寺派と大谷派が御朱印の授与を取りやめた(ブログの読者の方からの情報によれば、東本願寺では昭和62年の御朱印が確認できるとのことである)。
この時期、それまで真宗でも一般的であった葬儀の際の清めの塩などの伝統的な慣習や追善回向・神社参拝を排撃する排他的・原理主義的な方針が打ち出されており、御朱印の廃止もその一環と思われる。
特に本願寺派においては、御朱印をしない理由として、追善供養のための納経に由来することが強調されている。しかし、納経は必ずしも追善回向のみを目的とするものとは限らないし、庶民に納経帳が普及した頃には事実上の参拝の証しになっていた。また、真宗の御朱印が納経の証しではなく、参拝(もしくは寄進)の証しとして始まったことは、すでに見たとおりである。
さらに問題だと思うのは、「御朱印をやめた」ではなく、「伝統的に御朱印はしていない」と言っていることだろう。これがまったく事実に反することは今更言うまでもない。
とはいえ、最初にも書いた通り、教団として御朱印を廃したのは本願寺派と大谷派だけであって、高田派や仏光寺派など他の宗派は普通に御朱印を授与している。
平成28年にいただいた真宗高田派本山・専修寺の御朱印。
こちらは真宗仏光寺派本山・仏光寺の御朱印。
本願寺派や大谷派の寺院でも、二十四輩の寺院など今でも御朱印に対応している寺院もある。
東京都台東区の二十四輩第1番・坂東報恩寺(大谷派)の御朱印。
東京都港区の名刹・麻布山善福寺(本願寺派)の御朱印。
本願寺派や大谷派も、近年の御朱印ブームに抗しきれなくなったようで、平成27年(2015)に「真宗10派報恩講巡り」というスタンプラリーを始めた。
しかし、大谷派の「朱印をしない理由」というリーフレットには次のように書かれている。
回ったお寺の数だけ朱印が増えていくことは楽しみでありましょう。また、八十八箇所とか三十三所というように決められた場所をすべて回ったときには、何らかの達成感があることもわかります。
でも、ちょっと待ってください。お寺とは朱印を集めるためにお参りするところなのでしょうか。それならば、一度朱印をもらえば、二度とお参りすることはないでしょう。大事なのはお参りしたことがあるかどうかではなくて、お参りして教えに出遇(あ)ったかどうかです。また、どんな教えに出遇ったかということであるはずです。
この論法であれば、御朱印ではなくスタンプラリーと呼んでも問題は同じはずである。教えに触れる機会を作るというのであれば、そのメリットは御朱印も同様であろう。
御朱印集めのためにお寺に参った人は、一度朱印をもらったら二度とお参りすることはないが(それなら、四国や西国を何度も巡拝している人をどう説明するのだろうか)、スタンプラリーの人なら二度、三度と参拝するとでもいうのだろうか。
原理主義というのは一見純粋なようで、実際には極めてご都合主義なのだが、その典型的な実例のように思われる。
御朱印をするかしないかはそれぞれの考え方だとは思うが、本願寺派・大谷派については、それに伴う宗教者としての姿勢に疑問を感じざるを得ない。