河合神社は賀茂御祖神社(下鴨神社)の第一摂社で、糺ノ森のほぼ南の端に鎮座する。延喜式神名帳では「鴨川合坐小社宅神社」として名神大社に列している。本来の正式名称は小社宅〔おこそべ〕神社だが、高野川と鴨川が合流する地に鎮座することから河合社と呼ばれた。御祭神は神武天皇の母・玉依姫命で、女性守護・美麗の神として信仰を集める。鴨長明ゆかりの社としても知られる。
正式名称 | 賀茂御祖神社摂社 河合神社〔かわいじんじゃ〕 |
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御祭神 | 玉依姫命 |
社格等 | 旧官幣大社賀茂御祖神社摂社 |
鎮座地 | 御鎮座地の住所 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | https://www.shimogamo-jinja.or.jp/bireikigan |
御朱印
(1)
(2)
(1)平成23年拝受の御朱印。揮毫・朱印ともに「河合神社」。
(2)平成31年拝受の御朱印。文字はスタンプで「河合大明神」。朱印は「河合神社」で、右上に二葉葵の神紋。
(3)
(3)戦前の御朱印、時期不詳。中央の朱印は「式内鴨川合坐小社宅神社」、上の印は「官幣大社賀茂御祖神社摂社」。
河合神社について
御祭神
■玉依姫命
御本社の御祭神と同名だが同一神ではなく、神武天皇の母君の玉依姫命とされる。玉のように美しいことから「美麗の神」として信仰されているという。
ただし、異説もある。
『年中行事秘抄』に収められた延喜元年(901)の宣旨には「件川合神、是御祖別雷両神苗裔也」とある。これについて、上賀茂神社宮司であった座田司氏氏は『賀茂社祭神考』において、下鴨神社の御祭神・建角身命の御子神(玉依姫命の兄弟)である玉依比古命ではないかと推測している。玉依比古命は玉依姫命ほど知られていないが、賀茂県主氏の祖神である。
なお出雲路敬和氏の『京都古社寺詳説 平安前期編』によれば、当社御祭神の玉依姫命を神武天皇の母君とする伝承は、賀茂社の御祭神を神武天皇に擬した一時代の名残であるという。
由緒
河合神社は賀茂御祖神社(下鴨神社)の第一摂社で、糺ノ森の南端に鎮座する。延喜式神名帳には「鴨川合坐小社宅神社」として記載されている。社名は「かものかわあいにます おこそべじんじゃ」と読むが、『特選神名牒』は「かものかわあいにます おこそやけじんじゃ」と読ませる。
本来の正式名称は小社宅神社だが、高野川と鴨川が合流する地にあることから「河合神社」と称される。「只洲社〔ただすしゃ〕」と記されることもあり、また「河合社」と書いた場合でも「ただすのやしろ」と読まれるのが慣例であったという。なお、小社宅の「小〔お〕」は美称、「社宅〔こそべ〕」は社家の意とのこと。あるいは「小社宅」は「社戸〔こそべ〕」の意味で、社家の宅神(屋敷神)であるともいう。
創建の年代や経緯については詳らかでない。
『年中行事秘抄』に収められた延喜元年(901)の宣旨には、「件川合神、是御祖別雷両神苗裔神也」とあり、霊験が明らかで貴賤の帰依を受け、大神に幣帛を奉るときは先にこの神に奉る」とする。
元上賀茂神社宮司の座田司氏氏は『賀茂社祭神考』で、元は賀茂県主の宗家・泉亭氏の邸内に祀られていたのではないかと推測している。往古は高野川が今より東を流れており、泉亭氏の邸宅も現在の吉田泉殿附近にあって、河合神社もその邸内に鎮座していたが、高野川の河床の移動により現在の地に遷ったのではないかとする。
河合神社が文献に初めて現れるのは、『文徳天皇実録』天安2年(858)8月19日条の山城の従五位下鴨川合神が名神に預かるという記事である。
古くから朝廷や貴族の崇敬篤く、貞観元年(859)には従五位上、貞観4年(862)には正五位下を奉授された。さらに寛仁元年(1017)正二位に進み、元暦2年(1185)には正一位に極位した。延喜の制では名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の官幣に預かった。
寛永5年(1628)賀茂社式年遷宮が復活、河合神社でも寛永8年(1631)から式年遷宮が行われるようになり、延宝7年(1679)、正徳元年(1711)、寛保元年(1741)に社殿の改造が行われている。
一方、延宝3年(1675)と宝永元年(1704)には火災で社殿が焼失した。延宝の火災は油小路一条から出火し、上皇仮御所や公卿の邸宅、一条から上立売の間の上京一帯が燃え、さらに鴨川を超えて下鴨神社・河合神社を焼いたという。
また、宝永の火災は「近世京の四大焼け」に数えられる大火で、油小路姉小路附近から出た火が西南の風にあおられて御所や公卿・武家の屋敷、一般庶民の町家を焼き尽くし、川を越えて河合神社と附近の農家87戸が焼失した。
河合神社本殿は本社東西本殿とほぼ同じ大きさ・形式の三間社流造である。現在の社殿について、社頭掲示では延宝7年(1979)に造替された社殿を修理建造したものとしている。
一方、京都府教育庁文化財保護課の『京都府の近世社寺建築:近世社寺建築緊急調査報告書』(1983)によると、河合神社と貴船神社(賀茂御祖神社の第7摂社で、河合神社境内に鎮座する)の本殿は本社遷宮造替では全面的に造替されることになっているので、この2棟は文久3年(1863)の建築であるとする。残りの建築については、中門の細部意匠が江戸時代中期に属するものとみられることから、宝永の火災の後、正徳元年(1711)の造替時に建て替えられたものであろうという。
明治10年(1877)賀茂御祖神社の第一摂社に列せられた。
境内社
河合神社は周囲を土塀で囲んで一区画をなし、内部にいくつかの境内社がある。
■貴布禰神社
賀茂御祖神社の第七摂社。河合神社本殿の西側に鎮座する。
応保元年(1161)の「神殿屋舎等之事」に河合神社境内に祀られていたことが記されている。河合神社の境内社のようであるが、格式は高い。現在、下鴨神社の摂社は7社あるが、江戸時代以前は河合神社・出雲井於神社・貴船神社・三井神社の4社であった。
鴨川の上流に鎮座する貴船神社は中世には上賀茂神社の摂社となり、格別の崇敬を受けた。現在も貴船神社の御分霊を祀る新宮神社(貴布禰新宮)が第二摂社として祀られている。
座田司氏氏は当社について、上賀茂の社家が各々邸内社として貴布禰神社を祀っていたように、泉亭氏の邸内社として特別に信仰されていたのだろうという。そして、同じく泉亭氏の邸内社であった河合神社が公然と下鴨神社の摂社として祀られるようになったとき、貴布禰神社も貴布禰本宮(貴船神社)の分社として、下鴨神社の摂社として崇敬されるようになったのだろうと推測している。
■任部社
河合神社の末社。貴布禰神社の西側に鎮座する。「とうべのやしろ」と読む。御祭神は八咫烏命。
河合神社創建の時から祀られていた社で、古くは専女社〔とうめしゃ〕と呼ばれた。「専女」は「稲女」とも書き、食物を司る神々が祀られていたという。後に八咫烏を祀る小烏社を合祀した。
■六社
河合神社の末社。拝殿の西側に鎮座する。右から順に諏訪社(建御名方神)・衢社(八衢比古神・八衢比売神)・稲荷社(宇迦之御魂神)・竈門社(奥津日子神・奥津日売神)・印社(霊璽)・柚木社(少彦名神)。建仁元年(1201)に描かれたとみられる「鴨社古図」には河合社の御垣内にそれぞれ独立して祀られていたが、江戸時代の遷宮の時に一棟になった。
■三井社
河合神社の末社。別名「三塚社」とも呼ばれる。神門の南側、道を挟んで神門と向かい合うように鎮座している。中社に賀茂建角身命(御本社の御祭神)、西社に伊賀古夜日売命(建角身命の妻神)、玉依媛命(御本社の御祭神、建角身命の娘神で、賀茂別雷神の母)を祀る。
往古、下鴨神社は愛宕・葛野郡を領有しており、各郷には分霊社が祀られていた。当社は蓼倉郷の総社(祖社)であったという。なお、『山城国風土記』逸文に「蓼倉里三身社」とあるのは御本社の本殿西側に鎮座する摂社・三井神社のことで、当社ではないとのこと。
鴨長明と方丈
日本三大随筆の一つ『方丈記』で知られる鴨長明は久寿2年(1155)下鴨神社の社家の一族に生まれた。父の鴨長継は河合社の禰宜を経て下鴨神社の正禰宜惣官(下鴨神社の神職の最高位)を務めた人物であった。しかし、長明が20歳前後の頃に父が亡くなり、その跡を継いで神職として身を立てることができなかった。
その後、和歌を源俊恵に学び、歌人として認められるようになり、33歳の時、『千載和歌集』に1首入集して勅撰歌人となった。建仁元年(1201)和歌所が再興されると寄人に加えられ、「まかり出づることもなく、夜昼、奉公おこたらず」(『源家長日記』)と評されるほど熱心に職務に励み、後鳥羽院の信任を得た。
元久元年(1204)かねて長明が望んでいた河合社の禰宜に欠員が生じ、後鳥羽院は長明を補任しようとした。ところが下鴨の惣官であった鴨祐兼が自らの長男を推して強硬に反対、実現しなかった。別の社を官社に昇格させ、その禰宜に任じようとまで言ったが、失意の長明はその厚意を断って出家し、大原へ隠棲した。
そして承元2年(1208)頃、日野の外山(現在の伏見区醍醐)に方丈(1丈=約3m四方)の庵を結んで隠遁生活を送り、『方丈記』や歌論書『無名抄』、説話集『発心集』などを著した。建保4年(1216)日野の地で没。
鴨長明の方丈の庵が、ゆかりの河合神社境内に復元されていた。平成23年に参拝したときは覆屋が設けられていたが、平成31に参拝したときには取り除かれ、柴垣で囲われていた。現在は糺ノ森の中に移設されているようだ。
境内風景
境内南側、神門の前を横切る道には東西に鳥居が建っている。こちらは東鳥居。
西鳥居。
神門に向かい合う形で末社の三井社が鎮座する。
こちらは平成23三年に参拝したときの三井社。平成31年に参拝したときとは様子が違っていた。境内の整備に伴い、『都名所図会』などに見る昔の姿を復元しているようだ。
神門。檜皮葺きの四脚門で、左右に透塀を配する。資料によっては「中門」としている。
神門を潜ると、目の前に拝殿(舞殿)がある。
拝殿(舞殿)の左側には末社の六社がある。
幣殿西側の渡廊奥、向かって一番左に末社・任部社が鎮座している。
任部社と河合神社本殿の間に賀茂御祖神社第七摂社・貴布禰神社が鎮座する。御祭神は高龗神。
幣殿。入母屋造で正面に唐破風の向拝がある。その奥に唐破風造の祝詞舎、そして本殿が鎮座する。
本殿。三間社流造で、御本社の本殿とほぼ同じ形式・大きさとのこと。手前に唐破風作りの祝詞舎が見える。
境内の外から見た本殿。こうしてみると、なかなか大きいことがわかる。
メモ
下鴨神社境内、糺ノ森の南の端に鎮座する。下鴨神社の摂社とは言え、土塀に囲まれて一区画をなし、神門・拝殿(舞殿)・幣殿・本殿を構え、境内社を要して、あたかも独立した神社のような風格がある。
こちらで有名なのは美麗祈願の「鏡絵馬」。手鏡型の絵馬に顔が描かれている。自身が普段使っている化粧品でメイクし、自分の理想の顔を描く。裏に願意を書き、願いを託すことで、外見だけでなく内面も磨いて美しくなるという。
河合神社の概要
名称 | 河合神社 |
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旧称 | 小社宅神社 川合社 |
御祭神 | 玉依姫命〔たまよりひめのみこと〕 |
鎮座地 | 京都市左京区下鴨泉川町59 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 式内社、旧官幣大社賀茂御祖神社摂社 |
延喜式 | 愛宕郡 鴨川合坐小社宅神社 名神大 月次相嘗新嘗 |
例祭 | 11月15日 |
神事・行事 | 6月1日/貴布禰社例祭 9月9日/三井社例祭 11月15日/任部社例祭 11月15日/六社例祭 |
交通アクセス
□京阪電鉄「出町柳駅」より徒歩約10分
□JR・近鉄「京都駅」よりバス
■市バス4系統・205系統「新葵橋」下車、徒歩
参考資料
・下鴨神社公式サイト・由緒書
・『賀茂社祭神考』座田司氏(神道史学会)
・『京都古社寺詳説』出雲井敬和(有峰書店)
・『京都府の近世社寺建築-近世社寺建築緊急調査報告書』京都府教育庁文化財保護課(京都府教育委員会)
・『江戸と京都 上』明田鉄男(白川書院)
・『特選神名牒』
・『神社覈録』
・日本歴史地名大系『京都府の地名』(平凡社)
・『平成「祭」データ』
・國學院大學デジタルミュージアム「神道・神社史料集成(古代)」