建勲神社は、明治天皇の御沙汰により、明治3年(1870)信長の子孫である天童藩知事・織田信敏の東京の邸内に社を設けたことに始まる。明治8年(1875)別格官幣社に列し、明治13年(1880)船岡山に遷座した。
正式名称 | 建勲神社〔たけいさおじんじゃ〕 |
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御祭神 | 織田信長公 〈相殿〉織田信忠卿 |
社格等 | 旧別格官幣社 別表神社 |
鎮座地 | 京都市北区紫野北舟岡町49 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://kenkun-jinja.org/ |
御朱印
(1)平成18年拝受の御朱印。中央上の朱印は「建勲神社」、下は「天下布武」。
昔の御朱印
(1)大正8年の御朱印。墨書は「山城國舟岡鎮座/建勲神社」。中央の朱印は「建勲神社」。右上の印は「天下布武」。
(2)昭和5年の御朱印。上の印は「天下布武」。下は「建勲神社」。
(3)昭和17年の御朱印。上の印は「天下布武」。下は「建勲神社」だが、昭和5年のものとは違っている。また現在のものともよく似ているが、少し書体が違うようだ。なお、平成17年発行の『惟神の礎』には、天下布武の印のほうが掲載されている。
御由緒
建勲神社は、戦国時代の英傑・織田信長を祀る。正式には「たけいさおじんじゃ」というが、一般には「けんくんじんじゃ」として知られる。
明治2年(1869)明治天皇より、天下統一・朝儀再興に勲功のあった織田信長を奉斎するため、健織田社創立の宣下があった。翌明治3年(1870)1月、信長の子孫で天童藩知事(旧天童藩主)織田信敏が東京の邸内に社が設け、同年9月には旧領の天童にも分祀された(現・天童市の建勲神社)。同年10月、太政官の通知により建勲社と改称した。
明治8年(1875)別格官幣社に列格、京都の船岡山に社地を賜った。船岡山は、かつて豊臣秀吉が信長の像を安置するため、正親町天皇より天正寺の寺号を賜って一寺を建立しようとした縁の地である。
明治13年(1880)現在の「大平和敬神」の碑がある場所に社殿が完成し、東京より遷座するとともに、嫡子信忠を配祀した。さらに明治43年(1910)には山頂の現社地に本殿以下を移し、現在に至る。
写真帖
見どころ
■船岡山
建勲神社が鎮座する船岡山は標高112m、豊臣秀吉の頃から信長の聖地とされたことから自然がそのまま保たれ、京都盆地特有の樹相が守られている。
平安遷都の際に四神相応の玄武に充てられ、その真南に大極殿・朱雀大路が設けられた。応仁の大乱ではここに西軍が陣を敷いたことから、船岡山周辺を西陣と呼ぶようになった。京都市の風致地区、国の史跡に指定されている。
メモ
「けんくんじんじゃ」と呼ばれることが多く、公式サイトのドメインも”kenkun-jinja”となっている。
『枕草子』にも「岡は船岡…」とある船岡山は、平安京の造営に当たっては北の基点とされたそうで、その真南に大極殿があり、さらに朱雀大路が伸びていたという。応仁の乱では西軍が陣地を置いたため、周囲を西陣と呼ぶようになったとのこと。南東部分が建勲神社、北西部分は船岡山公園となっている。豊臣秀吉が織田信長の廟所と定めていたことから、自然がそのまま残されているとのことである。
参拝は少し暑いぐらいの晴れた日の午後。本殿に参拝し、御朱印をいただいた後、公園のほうまで遊歩道を散策した。緑に覆われた気持ちのよい空間。孫を連れた老人など、近所の人たちの憩いの空間になっているようだ。
建勲神社の概要
名称 | 建勲神社 |
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通称 | けんくんさん |
御祭神 | 贈太政大臣贈正一位 織田信長公〔おだ のぶながこう〕 〈相殿〉 従三位左近衛中将 織田信忠卿〔おだ のぶただきょう〕 |
鎮座地 | 京都市北区紫野北舟岡町49番地 |
創建年代 | 明治3年(1870) |
社格等 | 旧別格官幣社 別表神社 |
例祭 | 7月1日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月3日/元始祭 2月上旬/初午祭 2月11日/紀元祭 2月17日/祈年祭 4月10日頃/大和祭 4月29日/昭和祭 6月30日/夏越大祓式・茅の輪神事 10月19日/船岡大祭 11月23日/新嘗祭・御火焚祭 12月31日/晦日大祓式・除夜祭 |
文化財 | 〈重要文化財〉刀(無銘(義元左文字)) 紺糸威胴丸(附:保呂串付受筒、采配、鞭、櫃) 信長公記(太田牛一自筆本)〈国登録文化財〉本殿 拝殿 祝詞舎 渡廊 透塀 神饌所 祭器庫 手水舎 貴賓館 社務所 大鳥居 |
交通アクセス
□地下鉄烏丸線「北大路駅」より徒歩20分、またはバス
■市バス1・204・205・206(左回り)・北8・M1系統「建勲神社前」下車約5分
□JR・近鉄「京都駅」・阪急京都線「大宮駅」よりバス
■市バス206系統(右回り)「船岡山」または「建勲神社前」下車