本社三島神社は、弘安4年(1281)河野通有が夢告を受け、伊予国一宮・大山祇神社の御分霊を上野忍岡の河野氏の館に奉斎したことに始まる。慶安3年(1650)寛永寺の造営に伴い金杉村(現・根岸)に遷座、さらに宝永6年(1709)浅草小揚町(現・寿)の現社地に遷座した。
正式名称 | 三島神社〔みしまじんじゃ〕 |
---|---|
通称 | 本社三島神社〔ほんしゃ みしまじんじゃ〕 |
御祭神 | 大山祇命 〈相殿〉身島姫命 和足彦命 上津姫命 下津姫命 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都台東区寿4-9-1 [Mapion|googlemap] |
御朱印
平成23年拝受の御朱印。上の朱印は「折敷に三文字」の神紋、下は「本社三島神社之印」。
御由緒
台東区内には伊予国一宮・大山祇神社を本社とする三島神社が三社ある。寿の本社三島神社と根岸の元三島神社、下谷(旧・金杉町)の三島神社だが、元は一つの神社であり、由緒も共通している。
弘安4年(1281)の元寇に際し、河野通有は氏神である大山祇神社(三島大明神)に戦勝祈願をして九州に出征し、大山祇神社の神使である白鷺の導きによって大いに戦功を上げることができた。伊予に帰国した後、夢に大山祇神が現れ、「武蔵国に我を祀れ」というお告げがあった。そこで、武蔵国豊島郡の上野山内にある河野氏の館に奉斎したことに始まるという。
上記は旧別当・西蔵院の了心による『三島大明神略縁起』の説で、三社ともこの縁起を採っているが、異説もある。『江戸名所図会』では、河野某が本国伊予から武蔵国に赴く途中、海上が荒れたため、大山祇神社に祈願したところ、無事に到着した。その奉賽として邸内に御分霊を勧請したとする。また、『改撰江戸志』などには、延久2年(1070)武蔵国豊島郡の武士・江川団左衛門安経が下谷金杉村根岸村に三島神を奉斎したとあるらしい。
慶安3年(1650)寛永寺の造営に伴い社地移転を命じられ、金杉村(現在の台東区根岸)に遷った。宝永2年(1705)河野権九郎越智通護が社殿を再興したが、同6年(1709)社地が幕府の御用地となり、浅草元小揚町の現社地に1千坪を与えられて遷座した。
ところが、金杉村根岸の氏子から氏神様が遠いのは不都合だという声が上がり、御分霊を根岸の熊野神社に合祀、元三島神社と称するようになった。また、金杉町にも御分霊が勧請され、金杉(現・下谷)の三島神社となった。当社が「本社三島神社」と称するのは、根岸・金杉の分社に対する本社の意味だと思われる。
明治5年(1972)村社に列格。大正12年(1923)関東大震災で社殿等焼失し、その後再建されたが、昭和20年(1945)戦災のため再び焼失した。現在の社殿は同47年(1972)に造営されたものである。
補足
御祭神について、『平成「祭」データ』では大山祇命一柱になっているが、神社でいただいた由緒書では「大山祇命・身島姫命・和足彦命・上津姫命・下津姫命」となっている。これは金杉や根岸と共通であり、本項ではそちらを採ることにした。金杉・根岸では身島姫命以下を配祀としているので(『平成「祭」データ』は主祭神が大山祇命のみとの意味とも考えられる)、ここでもそれに従う。
写真帖
メモ
銀座線田原町からすぐのところに鎮座する。江戸時代には社地1千坪を賜ったといい、江戸名所図会にも当時の境内が描かれているが、現在はすっかり狭くなってしまい、1階が駐車場になっており、その上に鉄筋コンクリート製の社殿が鎮座している。
6年ほど前、何度か参拝して社務所で声をかけたのだが、いつも不在であり、東京都神社庁のサイトにも掲載されていない(つまり、本務社ではない可能性が高い)ことから、御朱印はないだろうと思い、その後は参拝しても社務所に声をかけることはなかった。
ところが先日、ネット上で当社の御朱印を見つけ、久しぶりに参拝して声をかけたところ、無事に拝受することができた。
本社三島神社の概要
名称 | 三島神社 |
---|---|
通称 | 本社三島神社 |
旧称 | 三島明神社 |
御祭神 | 大山祇命〔おおやまづみのみこと〕 〈相殿〉 身島姫命〔みしまひめのみこと〕 和足彦命〔わたしひこのみこと〕 上津姫命〔かみつひめのみこと〕 下津姫命〔しもつひめのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都台東区寿四丁目9番1号 |
創建年代 | 弘安4年(1281) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 5月第3日曜日 |
神事・行事 | 2月上午の日/初午祭 |
交通アクセス
□東京メトロ銀座線「田原町駅」より徒歩3分