母智丘神社は、大正8年(1919)黒木昇夫妻が宮崎県都城市に鎮座する母智丘神社の御神徳を感得し、御分霊を自宅に勧請して祀ったことに始まる。しかし家屋が鳴動して畏懼の念に耐えず、社殿を造営して遷座・奉斎、母智丘教会と称した。以来、近在の人々の崇敬を受け、昭和21年(1946)宗教法人登記に際して母智丘神社と改称した。
正式名称 | 母智丘神社〔もちおじんじゃ〕 |
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御祭神 | 豊受姫大神 大歳大神 |
社格等 | - |
鎮座地 | 御鎮座地の住所 [Mapion|googlemap] |
最寄り駅 | 町田(JR横浜線・小田急線) |
公式サイト | http://www7b.biglobe.ne.jp/~mochiojinjya/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。朱印は「母智丘神社」。
(2)平成29年拝受の御朱印。中央の朱印は「母智丘神社」、左下は抱き稲の神紋。
御由緒
御祭神
■豊受姫大神
伊勢の外宮の御祭神で、天照大神の食事を司る。農耕の神であり、一粒の種子から多くの稲が実る一粒万倍の御神徳があり、商売繁盛・子孫繁栄・安産の神としても信仰を集める。
■大歳大神(配祀)
須佐之男命と大山津見神の娘・大市比売命の間に生まれた。豊受姫大神と同じく農耕・商売繁盛・子孫繁栄・安産の神として信仰される。
御由緒
町田市原町田の母智丘神社は、宮崎県都城市に鎮座する旧県社・母智丘神社の御分霊を祀る。
大正8年(1919)黒木昇・ハナ夫妻が母智丘神社の御神徳を感得し、御分霊を勧請した。当初は自宅に奉斎していたが家屋鳴動し、神威を畏れ謹んで現社地に社殿を造営し、遷座・鎮斎したのが当社の始まりである。
創建当初は母智丘教会と称し、近在の人々の信仰を集めた。昭和21年(1946)宗教法人として登記した際に母智丘神社と改称した。
昭和34年(1959)拝殿を造営、昭和46年(1971)本殿の屋根の修理が行われた。しかし、旧社殿が老朽化したため、昭和60年(1985)に現在の社殿が造営された。
平成21年(2009)に原町田七福神が発足し、当社には弁財天が祀られた。
都城の母智丘神社
当社の御本社となる日向国の母智丘神社は、北諸県郡横市村(宮崎県都城市横市町)の持尾(母智丘)、一名石峰と呼ばれる標高245mの丘に鎮座する。この丘の頂に大きな神石があり、その下に狐の住む洞窟があって石峰稲荷と称し、古くから牛馬の守護をはじめ五穀豊穣・病気平癒に霊験あらたかとして信仰を集めていたという。
明治3年(1870)上荘内郷の地頭となった三島通庸は、当社の社殿を造営し、参道を整備して、荘内郷の鎮守とした。明治4年(1871)母智丘神社と改称して郷社に列格、明治6年(1873)県社に昇格した。
その後、三島は新政府に出仕、東京府参事・教部大丞・山形県令・福島県令・栃木県令・警視総監などを歴任する。深く母智丘神社を崇敬していたようで、自ら栃木県那須野ヶ原の開拓のために開設した肇耕社(後の三島農場)に母智丘神社の御分霊を祀っている(現在は那須塩原市・三島神社の奥宮となっている)。
東京都公文書館の情報検索システムを見ると、明治7年(1874)には東京市内に母智丘神社の遙拝所が設けられていたようである。また、明治9年(1876)の『近世神異紀聞』に「日向囶(国)母智丘社の神異の種々ありし話」という記事がある。三島が母智丘神社の御神徳の宣揚に尽力していたのであろう。
現在では宮崎県内有数の桜の名所としても知られている。
写真帖
メモ
町田駅から徒歩10分ほど、芹ヶ谷公園に隣接する閑静な住宅地に鎮座する。氏子を持たない小さな崇敬神社だが、手入れが行き届いて気持ちのよい境内である。
本殿は伊勢の外宮に準えた総檜・銅板葺きの唯一神明造。白壁が美しい拝殿もすっきりした印象で、大切にお祀りされていることがよくわかる。
母智丘神社の概要
名称 | 母智丘神社 |
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旧称 | 母智丘教会 |
御祭神 | 豊受姫大神〔とようけひめのおおかみ〕 〈相殿〉 大歳大神〔おおとしのおおかみ〕 |
鎮座地 | 東京都町田市原町田五丁目12番11号 |
創建年代 | 大正8年(1919) |
社格等 | - |
例祭 | 4月23日に一番近い日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月成人の日に近い日曜日/どんど焼き 6月30日/大祓(夏越の祓) 12月30日/大祓(大晦日の祓) 12月31日/除夜祭 |
巡拝 | 原町田七福神(弁財天) |
交通アクセス
□小田急線「町田駅」より徒歩8分
□JR横浜線「町田駅」より徒歩12分