雄郡神社は、天宇受売命を奉斎したことに始まるというが、その年代は不詳である。用明天皇元年(586)宇佐八幡より八幡三神を勧請した。元慶2年(878)神階従五位下を授けられ、延久5年(1073)正八幡宮と改称した。近世は松山藩主となった加藤嘉明や松平(久松)氏の崇敬を受けた。明治の初めに雄群神社の旧称に復し、明治32年(1902)雄郡神社に改めた。
正式名称 | 雄郡神社〔ゆうぐんじんじゃ〕 |
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御祭神 | 天宇受売命 品陀和氣尊 帯中日子尊 息長帯姫尊 |
社格等 | 国史現在社 旧県社 |
鎮座地 | 愛媛県松山市小栗3-3-19 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成22年拝受の御朱印。朱印は「雄郡神社之印」。
昔の御朱印
(1)昭和19年の御朱印。上の朱印は「県社雄郡神社社務所」、その下は「雄郡神社之印」。右下に火焔宝珠。
御由緒
雄郡神社は、『日本三代実録』に見える雄郡〔おぐり〕神に比定される国史現在社である。
天宇受売命を奉斎したことを創祀とするが、戦国時代の兵火で古記録を焼失してしまったため、その年代は詳らかでない。用明天皇元年(586)宇佐八幡より八幡三神を勧請、合祀したと伝えられる。
元慶2年(878)神階従五位下を奉授された。延久5年(1073)国司・源頼義が河野経親に命じて定めた八社八幡の四番社とされ、正八幡宮と改められた。
文禄4年(1595)に松前城主となった加藤嘉明は、当社を深く尊崇した。重臣・足立重信に命じて重信川の治水工事や石手川の開削工事を行ったときには、幣帛を奉納して工事の無事を祈願している。
当時は八町四方という広大な境内を誇り、大木が生い茂る神域に広壮な社殿が鎮座していた。鳥居は現在の社地より遙か西方にあり、その間は馬場となっていて流鏑馬祭が行われていたという。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に際し、加藤嘉明は東軍(徳川方)に呼応して出陣した。この時、西軍の毛利氏は加藤氏の領地に軍を派遣し、河野氏の旧臣が呼応して兵を挙げた(三津刈屋口の戦い)。
社司一党が松前城の城代・佃十成の要請により出動した後、河野の旧臣である村上・平岡氏らが火を放ったため、社殿・宝物・古文書等灰燼に帰した。以来、社地はほとんど当社の手を離れ、水田になってしまったという。慶長19年(1614)加藤嘉明により社殿が再興された。
その後、松山藩主となった松平(久松)氏も当社を深く尊崇し、道後の湯月八幡宮(現在の伊佐爾波神社)、味酒の味酒神社(現在の阿沼美神社)とともに藩の三社とした。元禄6年(1693)には藩主の寄進によって現在の社殿が造営されている。
明治初年、社号を正八幡から雄群〔おぐり〕神社に復し、郷社に列格した。さらに明治28年(1895)県社に昇格。明治35年(1902)旧記に基づいて社号の「群」を「郡」に改め、雄郡神社とした。
写真帖
見どころ
■左馬殿の松
神門の左側に加藤嘉明手植えという「左馬殿の松」があり、松山市の天然記念物に指定されていたが、昭和58年(1983)枯死してしまった。現在は二代目の松が植えられている。
■正岡子規の句碑
雄郡神社は正岡子規の産土神であり、境内には「うぶすなに幟立てたり稲の花」「御所柿に小栗祭の用意かな」の2基の句碑がある。
メモ
松山城の南西、旧大洲街道沿いに西を向いて鎮座する。現在の国道56号線を背にする形である。参拝は平成22年1月3日の夕方で、初詣の人出もおさまっており、ゆっくりと参拝することができた。
境内社には社号と御祭神・御神徳の掲示があるのだが、一社のみ幕のために見えなかった。弁天社と思われるが、確認できていない。
雄郡神社の概要
名称 | 雄郡神社 |
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旧称 | 正八幡 雄群神社 小栗神社 |
御祭神 | 天鈿女命〔あめのうずめのみこと〕 品陀和氣尊〔ほんだわけのみこと〕 帯中日子尊〔たらしなかつひこのみこと〕 息長帯姫尊〔おきながたらしひめのみこと〕 |
鎮座地 | 愛媛県松山市小栗三丁目3番19号 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 国史現在社 旧県社 |
例祭 | 10月5・6・7日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月節分/節分 3月第1日曜日/福運祭 6月30日/夏越祭 11月23日/感謝祭 |
巡拝 | 松山八社八幡(四番社) |
交通アクセス
□伊予鉄郡中線「土橋駅」より徒歩約10分
□伊予鉄道「松山市駅」より徒歩約17分、またはバス
■伊予鉄バス椿神社前・マドンナスタジアム・北伊予駅前行き「雄郡神社東」下車徒歩3分