阿沼美神社は、社伝によれば天智天皇3年(664)越智守興による創建で、延喜の制では名神大社に列した。勝山(現在の城山)に鎮座していたことから勝山三島大明神とも称したという。加藤嘉明が松山城を築くに際し、味酒郷の現在地に遷され、味酒神社と改めた。歴代藩主の崇敬を受け、社領・御供料の寄進が行われた。明治3年(1870)阿沼美神社と改称した。
正式名称 | 阿沼美神社〔あぬみじんじゃ〕 |
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御祭神 | 大山積命 高龗神 雷神 味耳命 〈相殿〉面足神 惶根神 神八井耳尊 |
社格等 | 式内論社(名神大) 旧県社 |
鎮座地 | 愛媛県松山市味酒町3-1-1 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成18年拝受の御朱印。朱印は「延喜式内名神大 阿沼美神社之印」。
(2)平成26年拝受の御朱印。朱印は平成18年のものと同じ。
(3)境内社・勝山八幡神社の御朱印、平成26年拝受。松山八社八幡の第八番。朱印は「勝山八幡神社之印」。
昔の御朱印
(1)昭和18年の御朱印。朱印は「県社阿沼美神社之印」。
(2)昭和18年、境内社・勝山八幡神社の御朱印。上の朱印は「武運長久 勝山八旛宮」、下は「勝山八幡神社」。
御由緒
松山市味酒町に鎮座する阿沼美神社は、延喜式神名帳所載の温泉郡・阿沼美神社に比定されている。
阿沼美神社は温泉郡で唯一の名神大社であったが、早くに退転し、所在もわからなくなっていた。「阿治美」とある写本もあり「アジミ」とフリガナがふられている。「アジミ」は「熱水」で、温泉の意味だとする説もある。他の有力な論社には、平田町の阿沼美神社がある。
社伝によれば、天智天皇3年(664)越智守興による創建とされる。味耳命を祖とする久米氏の氏神であったともいわれる。元は勝山(現在の城山)に鎮座していたことから、勝山三島大明神とも称していた。
『明治神社誌料』によれば、河野氏歴代の崇敬社で、源頼朝は社領7石を寄進した。しかし、天正年間(1573~93)福島正則が領主となると社領は没収され、さらに慶長6年(1601)社家の某女が一家の死滅に心狂して社殿に火を放ったため、神宝や古記は悉く焼失してしまったという。
慶長7年(1602)領主・加藤嘉明は勝山に城(松山城)を築くにあたり、当社を味酒郷の現社地に遷し、味酒大明神(味酒神社)と称するようになった。慶長10年(1605)社殿が落成、社領が寄せられた。
続いて松山藩主となった蒲生忠知や松平定行も深く当社を崇敬した。松平定行は当社を祈願所とし、以後も歴代藩主による社録や御供料の寄進があった。
松山の城下町は武家屋敷が並ぶ「外側」と商人の町である「古町」からなっていたが、当社は古町一帯を氏子としていた。当時、当社の行宮所は松山城の表鬼門である城山東麓の杉谷と、裏鬼門とされる堀之内の西ノ馬場に設けられ、天下太平と国内の安全を祈願した。
松山藩では、当社と湯月八幡宮(伊佐爾波神社)、正八幡宮(雄郡神社)の祭礼を三祭と呼んでいたという。
元禄年間(1688~1704)藩主・松平定直の招きにより、国学者・大山為起が当社の神職となった。大山は、後に国学四大人の一人・荷田春満の師となった人物である。山崎闇斎に唯一神道(垂加神道)を学び、伊予国内において広くその教えを伝えた。
明治3年(1870)官命により社領を奉還し、式内社に比定されて阿沼美神社と改称、県社に列格した。明治6年(1873)には愛媛県の中教院が仮設された。
昭和20年(1945)空襲により社殿等が焼失。現在の社殿は昭和32年(1957)に再建されたものである。
式内社論争
式内名神大社・阿沼美神社(あるいは阿治美神社)は早くに衰微し、その所在はわからなくなった。味酒神社を当てる説は古くからあったようだが、批判もあった。『豫州二十四社考』は大山為起の説を根拠に、松山城下・味酒村三島社を阿沼美神社とするのは妄説としている。
大山為起は「阿治美」は「阿知女(神楽の阿知女作法の「アチメ」)」であり、天鈿女命であると主張した。よって三島神を祀る味酒神社は阿沼美(阿治美)神社ではないとしたのであろう。
そのため、為起は味酒神社の神職になると、阿沼美神社に関わる遺物を旧庚申社地に埋め、神鏡は南江戸村の山崎八幡(現・朝日八幡神社)に、狛犬は小栗村の正八幡(現・雄郡神社)に、楼門は改造して八反地村の頭日八幡(現・国津比古命神社)に与えたという(鵜久森熊太郎『阿沼美神社考証』)。
天明2年(1782)和気郡大内平田村の三島新宮(現・松山市平田町の阿沼美神社)の本殿が大破し、再建工事が行われた際、「阿沼美三島新宮大明神」と書かれた文禄年間(1592~96)の棟札が見つかった。さらに天保4年(1833)社前の御幸橋の地下から延文5年(1360)の銘のある「阿沼美宮」と彫られた石額が見つかった。
この時、藩の調査に対して南江戸村の山崎八幡(朝日八幡神社)と小栗村の正八幡(雄郡神社)がそれぞれ阿沼美神社であることを主張したが認められず、天保5年(1834)吉田家の裁許を受けて三島新宮が式内社であることを認められ、社号を阿沼美神社に改めた。
しかし、延喜式神名帳には阿沼美神社を温泉郡とするのに、同社の鎮座する大内平田村は和気郡であること、同社が文禄年間に「阿沼美新宮」と称したとすることなどから(「新宮」の称は「本宮」が別にあったことを示唆する)、同社が式内社であることに疑義が唱えられた。
そして明治3年(1870)官命により味酒神社を式内社・阿沼美神社とし、県社に列することとなった。
勝山八幡神社
阿沼美神社の境内社・勝山八幡神社は、松山八社八幡の八番社で、元は勝山の山頂に鎮座していた。御祭神は品陀和気命。
伝承によれば、勝山に松山城を築くに当たり、普請奉行を命じられた足立重信と助役の山下八兵衛が調査に来ると、山頂に社があった。足立が薪を拾っていた老人に「この宮はいかなる神か?」と尋ねると、言葉が不明瞭で「勝山八幡」が「勝たず八幡」と聞こえた。
足立が「勝たずの八幡というのは不吉であるから取り壊すがよい」と言うと、山下が「不吉な社号のようだが、敵がこの城に向かって攻めてきても勝たずと考えれば吉相である。当山に鎮座する神をみだりに取り壊しては、かえって神罰の恐れがある」と言い、北の麓へ遷座することになった。
その後、蒲生忠知によって今市町の三宝寺境内に遷され、明治8年(1875)阿沼美神社境内に遷されて末社となった。
写真帖
メモ
松山城の西、伊予鉄古町駅の近くの味酒町に鎮座する。江戸時代には当社の門前町であることから宮之前町、明治以降は宮古町と呼ばれたところである。
境内は広場のようになっており、正面に鉄筋コンクリート造の社殿がある。右手には境内社の伊余夷子神社・勝山八幡神社・味酒天満神社・金刀比羅神社が、左手には稲荷神社が鎮座する。戦災など諸事情があるとはいえ、松山城下を代表する名社としては少々殺風景なのが残念である。
平成18年に初めて参拝したときは、松山八社八幡のことは知らなかったので、阿沼美神社の御朱印のみ拝受した。その後、八社八幡のことを知ったので、平成28年、朝日八幡神社や還熊八幡神社など、市域西部の八社八幡を参拝した際、阿沼美神社に二度目の参拝をして、勝山八幡神社の御朱印もいただいた。
阿沼美神社の概要
名称 | 阿沼美神社 |
---|---|
旧称 | 味酒神社 勝山三島大明神 |
御祭神 | 大山積命〔おおやまづみのみこと〕 高龗神〔たかおかみのかみ〕 雷神〔いかづちのかみ〕 味耳命〔うましみみのみこと〕 〈合祀〉 面足神〔おもだるのかみ〕 惶根神〔かしこねのかみ〕 神八井耳尊〔かんやいみみのみこと〕 |
鎮座地 | 愛媛県松山市味酒町三丁目1番1号 |
創建年代 | 天智天皇3年(664) |
社格等 | 式内社(論) 旧県社 |
延喜式 | 伊豫國温泉郡 阿治美神社 名神大 |
例祭 | 10月6日 |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭 2月17日/祈年祭 2月25日/如月祭 旧2月上午の日/初午祭 3月上午の日/社日祭 4月20日/夷子祭 6月30日/夏越祭 7月24日/天神祭 11月10日/金刀比羅祭 11月23日/新穀感謝祭 ※『平成「祭」データ』による |
巡拝 | 松山八社八幡(第八番・勝山八幡神社) |
交通アクセス
□伊予鉄高浜線・市内線「古町駅」より徒歩4分
□JR予讃線「松山駅」より徒歩12分
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