十番稲荷神社は、第二次大戦で被災した旧坂下町の末廣神社と旧永坂町の竹長稲荷神社を合祀したものである。末長神社は慶長年間(1596~1615)の創祀で、明治6年(1873)村社に列した。竹長稲荷神社の創建は和銅5年(712)とも弘仁13年(822)ともいわれる。古くは竹千代稲荷と称したが、徳川家光の幼名を避けて竹長(たけちょう)に改めたという。
正式名称 | 十番稲荷神社〔じゅうばん いなりじんじゃ〕 |
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御祭神 | 倉稲魂命 〈相殿〉日本武尊 市杵島姫命 田心姫命 湍津姫命 |
社格等 | 旧村社・無格社 |
鎮座地 | 東京都港区麻布十番1-4-6 [Mapion|googlemap] |
巡拝等 | 港七福神(宝船) |
公式サイト | http://www.jubaninari.or.jp/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。揮毫は「十番稲荷神社」。中央の朱印は宝船、右上は「港七福神 宝船」、左下は「十番稲荷神社」。この頃は神社の御朱印と港七福神の御朱印が同じだった。
(2)平成22年拝受の御朱印。神社と港七福神の御朱印が別になった。中央上の朱印は抱き稲の神紋、下は「十番稲荷神社」。右に「港区麻布十番鎮座」。
(3)平成27年拝受の御朱印。朱印は「奉拝 十番稲荷神社 港区麻布十番鎮座」。
(4)オリジナルの御朱印帳を拝受した際にいただける特別御朱印。十番稲荷を象徴する宝船・狐・蛙の絵の上に「十番稲荷神社」「旧末廣神社」「旧竹長稲荷神社」の文字と抱き稲の神紋の朱印。
(5)平成19年に拝受した港七福神・宝船の御朱印。この頃は(1)通常の神社の御朱印と共通だった。
(6)平成22年に拝受した港七福神・宝船の御朱印。朱印は従来と同じだが、揮毫が「寶船」になっている。
限定御朱印
(7)酉の市の御朱印、平成25年拝受。中央上に金の熊手の印、下に「十番稲荷神社」、右上に白抜きで「酉の市」の印。揮毫は「大鳥大神」。
(8)平成28年に拝受した酉の市の御朱印。朱印は熊手と小判。
(9)平成30年に拝受した正月限定の御朱印。朱印には「正月奉拝」「十番稲荷神社」「港区麻布十番鎮座」とあり、周囲の雲に「ハツモウデ」の文字と狐と蛙が隠れている。
昔の御朱印
末廣神社の御朱印
(10)昭和10年、末廣神社の御朱印。上の朱印は「末廣神社」。下のスタンプは社殿と「麻布十番 末廣神社」、蛙に「上の字様」、琵琶に「麻布稲荷七福神」。
(11)昭和10年、末廣神社・麻布稲荷七福神(港七福神の前身)の弁財天の御朱印。中央に弁財天の御姿の印、右上に「麻布稲荷七福神」、左下に「末広稲荷」。
竹長稲荷神社の御朱印
(12)昭和10年、竹長稲荷神社の御朱印。上の朱印は「竹長稲荷神社」。下のスタンプは宝船と鮭に「麻布稲荷七福神」「永坂 竹長神社」「鮭の護符」。
(13)昭和10年、竹長稲荷神社・麻布稲荷七福神の宝船の御朱印。中央に宝船の印、右上に「麻布稲荷七福神」、左下に「竹長稲荷」。現在の港七福神・宝船の御朱印の元になったものである。
御由緒
御祭神
■倉稲魂命
■日本武尊
■市杵島姫命
■田心姫命
■湍津姫命
御由緒
旧坂下町に鎮座していた末廣神社と旧永坂町に鎮座していた竹長稲荷神社が戦後に合祀され、十番稲荷神社と称するようになった。
末廣神社の御由緒
末廣神社は麻布坂下町41番地(現在の麻布十番2丁目4-1あたり)に鎮座し、坂下町と網代町の鎮守であった。御祭神は田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命、倉稲魂命、日本武命。
慶長年間(1596~1615)の創建と伝えられる。元禄4年(1691)までは坂下町の東の外れにあったが、社地が御用地として召し上げられたため、翌元禄5年(1692)坂下町北西端の旧社地に遷座した。
古くは境内に多くの柳の木があったことから「青柳稲荷」と呼ばれていた。そのうちの一本の柳が繁って扇の形になったことから「末広の柳」と呼ばれるようになり、社も「末廣稲荷」と称されるようになったと『再校江戸砂子』にある。ただし残念なことに、この柳は享保6年(1721)の火災で類焼したという。
明治6年(1873)7月5日、村社に列格。当時は稲荷神社と称したが、明治20年(1887)末廣神社に改めた。相殿に宗像三女神を祀っていたことから、港七福神の前身である麻布稲荷七福神では弁財天の札所であった。
竹長稲荷神社の御由緒
竹長稲荷神社は、麻布永坂町43番地(現在の麻布十番1丁目2番と3番の境あたり)に鎮座していた。旧別当は本山修験宗の龍王院(廃寺)で、永坂町と新網町の鎮守であった。御祭神は宇迦之御魂命。
社伝によれば、弘仁13年(822)慈覚大師円仁が、武蔵国豊島郡竹千代ヶ丘(現在の鳥居坂上)に八咫の神鏡をもって稲荷大神を勧請したことを創祀とする。
一説には和銅5年(712)の創建ともいい、文政11年(1828)寺社書上には、和銅5年2月に八咫鏡を納めて倉稲魂命と勧請し、弘仁13年春に社殿を造営、倉稲魂命の御神体を納めたと記している。古くは大社であり、延喜式神名帳所載の稗田神社だったとも伝えられる。
弘安2年(1279)鳥羽氏が社殿を再建。寛永元年(1634)永坂町に遷座した。古くは竹千代稲荷と称したが、三代将軍家光の幼名を避けて「竹長(たけちょう)」に改めたという。『江戸砂子』には「竹町稲荷」とある。
明治の神仏分離で龍王院は廃され、稲荷神社と称するようになったが、明治40年(1907)竹長稲荷神社と復称した。
戦前の麻布稲荷七福神詣ででは宝船の札所となっており、現在の港七福神の宝船の印影は、当時の竹長稲荷の御朱印を踏襲したものである。
十番稲荷神社
両社は昭和20年(1945)戦災により焼失。同25年(1950)復興土地区画整理により、替え地として現在地に移転し、隣り合って鎮座した。その後、両社を合併し、十番稲荷神社と改称。平成9年(1997)地下鉄の開通にともなって社殿を新築した。
拝殿前の狛犬は昭和12年(1937)麻布十番出身の歌手・音丸が末廣神社に寄進したものである。また、喜劇俳優のエノケン(榎本健一)が寄進した鳥居もあったが、老朽化のため、平成9年(1997)の社殿新築の際に建て替えられた。
上の字様
石段脇にカエルの石像が安置されているが、これには次のような伝承がある。
文政4年(1821)の大火でこの付近がほとんど焼失したとき、山崎主税助の屋敷のみが焼け残った。これは邸内の池に住む大ガエルが水を拭きかけて猛火を退けたためだという評判が立った。山崎家では「上」の一字を書いたお札を頒布したところ、「上の字様」と呼ばれ、防火・火傷の霊験で信仰を集めたという。その後、「上の字様」は末廣神社から頒布されるようになった。戦後、一時中断したが、その由緒に因んで昭和50年(1975)から「かえる御守」を授与するようになり、カエルの石像も造られた。さらに平成20年(2008)には「上の字様」も復活したとのことである。
写真帖
メモ
麻布十番の交差点近くに鎮座する。筆者が東京で勤め始めた頃は、麻布十番というと陸の孤島というイメージで、何度か所用で訪れたが都バスを使って不便だったという印象が残っている。地下鉄の開通ですっかり便利になったが、その時に当社も現在の姿になったようだ。小さいながらも、いろいろ積極的な取り組みをしている元気な神社である。
なお、以前は港七福神の御朱印も通年対応だったが、平成28年現在、正月期間のみの授与になっているようだ。
十番稲荷神社の概要
名称 | 十番稲荷神社 |
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旧称 | 末廣神社:末廣稲荷神社 稲荷神社 竹長稲荷神社:稲荷神社 竹長神社 |
御祭神 | 倉稲魂命〔うかのみたまのみこと〕 〈相殿〉 日本武尊〔やまとたけるのみこと〕 市杵島姫命〔いちきしまひめのみこと〕 田心姫命〔たぎりひめのみこと〕 湍津姫命〔たぎつひめのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都港区麻布十番一丁目4番6号 |
創建年代 | 末廣神社:慶長年間(1596~1615) 竹長稲荷神社:和銅5年(712)/弘仁13年(822) |
社格等 | 末広神社:旧村社 竹長稲荷神社:旧無格社 式内論社 |
延喜式 | 武蔵國荏原郡 稗田神社 |
例祭 | 9月16・17日(両日に近い土・日曜日) |
神事・行事 | 2月節分/節分 2月初午の日/初午祭 6月30日/大祓(夏越しの祓) 8月(2日間)/麻布十番納涼まつり(※限定御朱印あり) 11月酉の日/酉の市(※限定御朱印あり) 12月31日/大祓 |
巡拝 | 港七福神(宝船) |
交通アクセス
□麻布十番駅(都営大江戸線)より徒歩すぐ
□麻布十番駅(南北線)より徒歩5分
□渋谷駅(JR)よりバス
■都営バス新橋駅前行「麻布十番」下車徒歩5分