八槻都々古別神社 | 福島県東白川郡棚倉町

八槻都々古別神社

八槻都都古別神社は日本武尊が東征の際、建鉾山に鉾を建て、味耜高彦根命を祀ったことに始まると伝えられる。陸奥国一宮・式内名神大社の都都古別神社(都々古別神社)の論社。同じく論社に馬場都都古和氣神社がある。由緒もほぼ共通で、元々一体であったのか、どちらかが分祀したのか等、その関係は不明である。明治に激しい論争があったものの決着がつかず、両社ともに国幣中社とされた。

正式名称 都々古別神社〔つつこわけじんじゃ〕
御祭神 味耜高彦根命 〈相殿〉日本武尊
社格等 式内論社(名神大) 陸奥国一宮 旧国幣中社 別表神社
鎮座地 福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224 [Mapion|googlemap]
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目次

御朱印

八槻都々古別神社の御朱印

(1)

(1)平成19年拝受の御朱印。中央の朱印は「都都古別神社」、その下は「八槻社印」。右上の印は「八槻鎮座/奥州一宮」。揮毫は「都々古別神社」。

昔の御朱印

八槻都々古別神社の御朱印

(2)

八槻都々古別神社の御朱印

(3)

(2)昭和10年(1935)頃の御朱印。中央の朱印は稲穂に「國幣中社/都都古別大神御璽」。右上の印は「八槻鎮座/奥州一ノ宮」、左下は「國幣中社都都古別神社社務所之印」。

(3)昭和18年(1943)の御朱印。中央の朱印は「八槻坐都都古別神社」。

御由緒

八槻都々古別神社
戦前の絵はがき

社伝によれば、日本武尊が八溝山に東夷の大将を討ったとき、天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神が示現した。三神が建鉾山(白河市表郷三森、都々古山〔つつこやま〕とも)に隠れたとき、日本武尊が矢を放ち、その矢が着いたところを「箭津幾〔やつき〕」と称し、都々別神社を創建したという。

また、日本武尊が東夷の大将を射た八目鳴鏑〔やつめのなりかぶら〕が着いた場所を「矢着〔やつき〕」と称して神社を創建し、神亀3年(726)に「八槻」と改めたともいう。

日本武尊が千度戦って千度勝ったということから、八幡太郎源義家が「千勝(近津)〔ちかつ〕大明神」と改めたという。

延喜式所載の名神大社で陸奥国一宮の都都古和気神社とするが、同じ棚倉町内の馬場地区にも都都古和気神社があり、同じく式内名神大社・陸奥国一宮を称する。両者を区別するためにそれぞれの鎮座地の名を冠し、八槻都々古別神社・馬場都々古別神社と呼ぶ。

祭神も同じで、建鉾山(都々古山)を起源とする由緒にも共通点が多いものの、元々一体のものであったのか、どちらか一方から分祀したのか、それとも別の神社が同じ名を称しているのか、いずれともわからない。

江戸時代まではどちらも近津大明神と称しており、久慈川沿いに鎮座する馬場・八槻の都々古別神社と下野宮の近津神社(茨城県久慈郡大子町)を総称して近津三社ともいい、八溝山とも深い関わりを持っていた。八槻の都々別神社は位置的関係から中之宮とも称した。馬場は高野郡(現・東白川郡)北郷の、八槻は南郷の、下野宮は依上保〔よりがみほ〕(茨城県大子町の辺り)の総鎮守として崇敬を集めていた。

明治にいずれを式内社とするかで大論争があったが決着がつかず、両社並立とされた経緯がある。いずれにせよ、どちらも多くの文化財を蔵し、古い歴史を誇る古社である。

中世には神仏習合の修験道場として栄え、別当・大善院(八槻別当、近津別当を称し、八槻氏が世襲した)は南郷のみならず白河から依上保に至る熊野修験を統括して絶大な勢力を保った。南郷一円の領主を神人として組織し、領主の白河結城氏からその支配権を認められていた。後にこの地を支配した佐竹氏も八槻別当の神主職と神領を安堵し、江戸時代に入っても八溝山をはじめとする広範囲の修験寺院を統括していた。

明治6年(1873)馬場の都々古別神社が国幣中社に列したことに対し、教部省へ異議を申し立てた。どちらを式内社・国幣中社とするかで大論争が起こったが結論が着かず、両社合併案などもあったが、結局両社並立ということになり、明治18年(1885)両社並立として国幣中社に昇格した。

なお、延喜式は「都都古和氣神社」とあるが、馬場都々古別神社が国幣中社に列格した際の太政官符に「都都古別神社」の表記が用いられたことから、「別」の字を使うようになっている。

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写真帖

鳥居と参道
鳥居と参道
随神門
随神門
拝殿
拝殿
本殿
本殿
境内の石灯籠
境内の石灯籠

メモ

参道を進むと随神門があり、瑞垣に囲まれた立派な社殿がある。他に大きな建物がないため、ガランとした印象の境内。社殿の東側は雑木林になっているが、その中に石灯籠が並んでいる。かつて境内には観音堂や阿弥陀堂、駒石権現など多くの仏堂が並んでいたという。神仏分離で仏堂や仏具が取り払われた跡が雑木林になったのであろう。現存する社殿や境内地の面積から考えて、壮麗な神仏習合の霊場であったと思われる。
この辺りは公共交通機関がきわめて不便なので、参拝は自家用車を使うのが無難だろう。昼間は4時間も電車がない(日によっては1本あり)。休日でバスもなかったため、馬場の都都古和気神社まで徒歩で移動。東北の遅い春を味わうにはよかったが、夏や冬は大変だろう。

八槻都々古別神社の概要

名称 都々古別神社
通称 八槻都々古別神社 八槻都都古別神社
旧称 都都古和氣神社 近津大明神 千勝大明神
御祭神 味耜高彦根命〔あぢすきたかひこねのみこと〕
〈相殿〉
日本武尊命〔やまとたけるのみこと〕
鎮座地 福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224
創建年代 伝・景行天皇の御代(71~130)
社格等 式内社(論) 陸奥国一宮 旧国幣中社 別表神社
延喜式 白河郡 都都古和氣神社 名神大
例祭 11月第2土・日曜日(霜月大祭)
神事・行事 旧暦1月6日/御田植祭
文化財 〈重文〉銅鉢(4口)〈重要無形民俗文化財〉都々古別神社の御田植 〈重要美術品〉木造十一面観音立像 〈県有形文化財〉聖護院道興短冊 銅製釣灯籠(2基) 八槻文書(242点) 御正体 銅鉢 〈県有形民俗文化財〉古面(17口) 〈県無形民俗文化財〉八槻都々別神社の神楽

交通アクセス

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