巣鴨村の総鎮守。元亨年間(1321~24)巣鴨の鎮護のために祀られたという。江戸時代には鬼子母神信仰の高まりから十羅刹女神を併せ祀り、十羅刹社と呼ばれていた。明治の神仏分離により神明宮と復称、十羅刹女神は福蔵寺(後に東福寺に合併)に遷された。明治6年(1873)天祖神社と改称、村社に列した。
正式名称 | 天祖神社〔てんそじんじゃ〕 |
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御祭神 | 天照大御神 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都豊島区南大塚3-49-1 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.tensojinjya.com/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。上の朱印は「天祖神社」、下は社殿と夫婦鴨脚樹に「天祖神社参拝記念」。
(2)平成28年夏詣でで拝受した御朱印。中央の朱印は平成17年のものと同じ。右上に水色で「夏詣」、下に都電神社巡りの都電車両のスタンプ。
昔の御朱印
(1)昭和14年の御朱印。朱印は「巣鴨天祖神社参拝」。現在の南大塚・北大塚は巣鴨の一部で、当社の通称は巣鴨天祖神社であった。
御由緒
巣鴨村の総鎮守。北大塚・南大塚もかつては巣鴨の一部であり、当社も巣鴨天祖神社と通称されていた。江戸時代は十羅刹社と称され、瑠璃山福蔵寺(南大塚1の東福寺に合併)の境内にあった。
かつての巣鴨村は現在の豊島区の約半分(巣鴨・西巣鴨・北大塚・南大塚・東池袋2~5・上池袋1)に相当する。大塚は本来文京区大塚辺りを指すが、巣鴨村内に大塚駅ができたため、次第に駅周辺を大塚と呼ぶようになり、昭和44年(1969)の住居表示の実施に伴い正式に北大塚・南大塚となった。
社伝によれば、元亨年間(1321~24)豊島氏中興の祖と称された豊島景村の時、巣鴨鎮護の神として伊勢神宮の御分霊を奉斎したことに始まるという。
その後、鬼子母神信仰が盛んになり、その御子である十羅刹女神を併せ祀るようになった。『新編武蔵風土記稿』には「十羅刹社 鬼子母神を合祀す、村内の鎮守とせり」とある。
『北豊島郡神社誌』(昭和8年)によれば、鬼子母神を境内に奉安したのは永禄年間(1558~70)、十羅刹女神を社殿内に安置したのが天正年間(1573~93)。徳川吉宗が鬼子母神とともに数回参拝したため、俗に十羅刹女神社と呼ばれるようになり、神明宮であったことが忘れられたという。
明治2年(1869)神仏分離により福蔵寺から独立。十羅刹女神は福蔵寺に遷し、神明宮と復称する。明治6年(1873)村社に列格、天祖神社と改称した。因みに、福蔵寺はその後火災で焼失、明治7年(1874)村内の観光山東福寺(南大塚1、真言宗)に合併している。
当時の社殿は天明年間(1781~89)の建築であったが、老朽化のため昭和8年(1933)改築された。しかしこの社殿も昭和20年(1945)4月に空襲で焼失。昭和25年(1950)復興奉賛会が結成され、まず拝殿が再建された。しかし区画整理が始まったために造営は一時中断し、境内も3分の1になってしまった。
昭和38年(1963)に区画整理が完了したため、昭和40年(1965)再び造営事業に着手、昭和43年(1968)本殿の造営、幣拝殿の修復が完了した。
御神木の夫婦鴨脚樹は樹齢約600年、高さは30mある。空襲で被災し、一時は枯死も心配されたというが、今は再び蘇って枝葉を広げている。
写真帖
メモ
大塚駅の南100mほどのところに鎮座する。周囲は駅前の商店街で人通りが多く、参拝に立ち寄ったり、鳥居の前で一礼する人の姿も見かけられる。境内には昔の写真などが掲示されている。当社は先の大戦の空襲で社殿や神宝、記録など一切が焼失したということで、それだけに歴史を大切にしようとしていることがよく伝わってくる。
大塚天祖神社の概要
名称 | 天祖神社 |
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通称 | 大塚天祖神社 |
旧称 | 十羅刹社 神明社 巣鴨天祖神社 |
御祭神 | 天照大御神〔あまてらすおおみかみ〕 |
鎮座地 | 東京都豊島区南大塚三丁目49番1号 |
創建年代 | 元亨年間(1321~24) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 9月17日 ※前後の土・日曜日に神賑行事 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月3日/節分祭 2月11日/紀元祭 2月17日/祈年祭 3月午の日/稲荷社祭 4月8日/三峯榛名社祭 4月15日/熊野社祭 5月25日/菅原社祭 6月17日/厳島社祭 6月30日/夏越の大祓 10月17日/神嘗奉祝祭 11月23日/新嘗祭 12月31日/年越の大祓 |
交通アクセス
□JR山手線「大塚駅」より徒歩約3分
□都営荒川線「大塚駅前」より徒歩約3分
□東京メトロ丸ノ内線「新大塚」より徒歩約7分