忌部神社は、阿波忌部の祖・天日鷲命を祀る。元は麻植郡にあった。延喜の制では名神大社に列し、月次・新嘗の官幣に与るなど、四国随一の格式を誇った。中世には衰微し、社地も分からなくなったが、天皇即位に関わる由緒を持つことから、明治4年(1871)国幣中社に列格。しかし、激しい正蹟論争が起こり、決着がつかなかったことから、明治20年(1887)徳島・勢見山の現社地に社殿を造営し、遷座奉斎されることとなった。
正式名称 | 忌部神社〔いんべじんじゃ〕 |
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御祭神 | 天日鷲命 〈相殿〉配祀・合祀の神々 |
社格等 | 式内社(名神大) 旧国幣中社 別表神社 |
鎮座地 | 徳島県徳島市二軒屋町2-48 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成19年拝受の御朱印。中央の朱印は「忌部神社」。左下は白抜きで「忌部神社」、右上は白抜きで「奉拝」。
昔の御朱印
(1)大正14年頃の御朱印。中央の朱印は「忌部神社」。右上の印は鷲の図に「参拝記念」。左下は「忌部神社社務所」。
(2)昭和16年の御朱印。朱印は「忌部神社」で、大正14年頃のものと同じ。因みに、昭和17年刊行の『惟神の礎』には、この印とは違う「国幣中社忌部神社」という印が掲載されている。
御由緒
忌部神社は、阿波忌部が祖神・天日鷲命を祀ったもので、元は麻植〔おえ〕郡(現在の吉野川市、もしくは美馬郡つるぎ町)に鎮座していた。かつては四国随一の格式を誇り、四国一の宮とも称されたという。
現在の社号は忌部神社だが、『続日本後紀』や『三代実録』には天日鷲神あるいは忌部天日鷲神などと記されている。延喜式の名神祭条は天日鷲神社だが、神名帳は忌部神社とし、「或いは麻殖神と号し、或いは天日鷲神と号す」という注記がある。
『古語拾遺』などによれば、天日鷲命は天の岩戸開きに際し、天太玉命に従い、穀〔かじ〕の木(楮)を植えて白和幣〔しろにぎて〕を作ったとされる。
神武天皇の御代、その子孫は天富命に率いられて阿波国に入り、穀木・麻を植え、木綿・麻布などを貢納した。よって、その地を麻殖郡(麻植郡)と称するようになったとされる。大嘗祭に用いられる「麁服御衣〔あらたえのみそ〕」は代々阿波忌部氏から奉られた。
ちなみに、『古語拾遺』によれば、阿波忌部の一部は天富命に率いられて東国に渡り、安房国・総国(上総・下総)を開拓した。そこで天富命が太祖・天太玉命を祀ったのが安房神社であるとされる。
古くから朝野の崇敬篤く、『新抄格勅符抄』の大同元年牒(806)には「忌部神 廿戸 紀伊十戸 出雲十戸」とある。嘉祥2年(849)に従五位下を奉授され、貞観元年(859)従五位上、元慶2年(878)正五位下、元慶7年(883)従四位下に昇叙された。延喜の制では名神大社に列し、月次・新嘗の官幣に与った。
文治元年(1185)源義経は屋島の合戦に際して太刀一振りを奉納して戦勝を祈願、那須与一も弓矢を奉納したと伝えられる。文治3年(1187)には、源頼朝が御供料として田畑1,000町歩を寄進したという。
しかし、中世以降たびたび兵火にかかり、衰微して社地もわからなくなった。阿波忌部の後裔・三木氏らによって続けられていた麁服の貢進も南北朝の動乱以降途絶えてしまった。
明治になり、天皇即位に関わる由緒を持つことから、明治天皇の思し召しにより復興されることとなり、明治4年(1871)国幣中社に列格した。しかし、社地が不明であったことから当座の処置として県社大麻比古神社(鳴門市)に合祀された(大麻比古神社は明治6年に国幣中社昇格)。
当時、忌部神社の候補として、麻植郡内に山崎村の天日鷲神社(旧称・王子権現、現在の山崎忌部神社)をはじめ、川田の種穂神社(元文年間の忌部論争で忌部本宮と認められていた)、宮島村の浮島八幡宮、西麻植村の中内神社(式内・秘羽目神足浜目門比売神社の論社)、上浦村の斎明神、牛島村の牛島八幡神社(通称の大宮は麻の宮の転訛とされる)などがあった。
これを調査した国学者の小杉榲邨は、三木山の三木氏文書などを根拠として、山崎村の天日鷲神社を忌部神社とし、明治5年(1872)同社が国幣中社に指定された。
これに対して、美馬郡西端山の御所神社が式内忌部神社であると主張し、論争が起こった。明治7年(1874)再度の太政官布告があり、山崎忌部神社が正式に式内大社・国幣中社と決定されたが、さらに論争が激しくなり、明治14年(1881)西端山の御所神社に変更された。
しかし、今度は山崎側が激しく反発し、流血沙汰も起こるほどの正蹟争いがあったことから、徳島勢見山の金比羅神社西方に社地を選定し、遷座奉斎することで決着した。
明治18年(1885)勢見山の金比羅神社に仮遷座。明治20年(1887)現社地に社殿が落成し、奉遷鎮祭された。
昭和20年(1945)空襲のため社殿等ほとんどの建物が焼失。昭和28年(1953)現在の本殿が、昭和43年(1968)拝殿が再建された。
写真帖
メモ
境内は国道438号線金比羅下交差点に面して鎮座する金刀比羅神社の裏手になる。そのため、金刀比羅神社の南と西に参道がある。南側が表参道のようだが、国道沿いの観潮院の横の道に社号標があり、奥にはいると入り口の鳥居が見える。参道は結構急な石段で、登り切ると平坦な境内に出る。
左手に鳥居、その奥に社殿、右手には境内社、正面には北側からの石段(つまり金刀比羅神社の西側)がある。白い拝殿と玉垣がすっきりとした印象を与える。
平成18年に初めて参拝した時は、北の石段からの参拝。夕方で、しかも下調べを怠っていたため、金刀比羅神社でうろうろしてしまった。そのため、忌部神社にたどり着いたときには社務所が閉まっており、御朱印をいただくことができなかった。2度目の参拝は平成19年。南側の参道から参拝し、無事に御朱印をいただくことができた。
なお、南と西の参道には駐車場がない。車で参拝する場合、眉山公園へ向かう道路の途中で右折すると、神社裏手の駐車場に出るようだ。
忌部神社の概要
名称 | 忌部神社 |
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旧称 | 天日鷲神 忌部天日鷲神 |
御祭神 | 天日鷲命〔あめのひわしのみこと〕 |
鎮座地 | 徳島県徳島市二軒屋町二丁目48番 |
創建年代 | 神武天皇の御代/明治20年(1887)現社地に遷座 |
社格等 | 式内社 旧国幣中社 別表神社 |
延喜式 | 阿波國麻殖郡 忌部神社 名神大 月次新嘗 或號麻殖神 或號天日鷲神 |
例祭 | 10月19日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月11日/紀元祭 2月17日/祈年祭 5月15日/春祭(鷲替え神事) 11月22日/神衣祭(麁服貢進記念祭) 11月23日/新嘗祭 ※『平成「祭」データ』による |
交通アクセス
□JR牟岐線「二軒屋駅」より徒歩約10分
□JR高徳線・徳島線「徳島駅」より徒歩25分、またはバス
■市営バス法花行き「金比羅下」下車徒歩5分