勝利八幡神社は、上北沢村の鎮守。社伝によれば、万寿3年(1026)京都の石清水八幡宮より勧請されたという。明治40年(1907)山谷稲荷神社を合祀した。日露戦争の時、出征した氏子が無事に生還したことから勝利八幡と呼ばれるようになった。その名にあやかって、スポーツ関係者の参拝が多いという。
正式名称 | 八幡神社〔はちまんじんじゃ〕 |
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通称 | 勝利八幡神社〔しょうり はちまんじんじゃ〕 |
御祭神 | 応神天皇 〈合祀〉宇迦之御魂命 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都世田谷区桜上水3-21-6 [Mapion|googlemap] |
御朱印
平成17年拝受の御朱印。朱印は「勝利八幡」。
御由緒
勝利八幡神社は、上北沢村(現上北沢・桜上水)の鎮守で、旧別当は真言宗の幽谿山密蔵院(桜上水2)であった。
日露戦争の後、出征した氏子が無事に生還したことから「勝利八幡」と呼ばれるようになった。その名にあやかり、スポーツ関係者の参拝が多いという。
社伝によれば、万寿3年(1026)山城国の石清水八幡宮より御分霊を勧請したことに始まるとされる。また、最初は天から降ってきた伊勢神宮のお札を祀っていたが、甲斐武田氏と小田原北条氏の合戦の後、小田原の武将・鈴木氏一族が上北沢に移住し、八幡神を祀るようになったという言い伝えもあるが、真偽のほどはわからないという。
江戸時代は上北沢の名主・鈴木氏と有力農民の榎本氏が社の護持に尽力したようである。
元禄9年(1696)には榎本信親の発願で社殿を造営。昭和43年(1968)の改築まで当社の社殿は築山の上にあったが、これは享保14年(1729)榎本時勝の発起によって築かれたものであった。330人余の人足により、22日で完成したという。延享3年(1746)には鈴木氏が鳥居を寄進。また榎本時勝が講中を立てて寄進を募り、石段を修築した。
明治5年(1872)村社に列格。明治40年(1907)には字山谷(上北沢4)の山谷稲荷神社を合祀。この社は山谷の鎮守で、慶長19年(1614)の勧請と伝えられる。
昭和43年(1968)現在の社殿が造営された。この時、従来社殿が建っていた築山が取り壊された。天明8年(1788)の建築という旧本殿は境内に覆屋を建てて保管されている。世田谷区内に残る最古の神社建築で、区の文化財に指定されている。
境内社の天祖神社は慶長19年(1614)榎本氏勝によって勧請されたもの。元は神明社と称し、八幡神社の北に鎮座していた。『新編武蔵風土記稿』によれば、この年、伊勢参宮が流行り、踊りを踊って群参したので、遙拝のために神明宮を勧請したという。享保10年(1725)榎本時勝が願主となって再建された。明治になって天祖神社と改称、その後、八幡神社境内に遷座、末社となった。現在は多賀神社・大鳥神社・熊野神社・氷川神社・秋葉神社を合祀している。
同じく境内社の豊受稲荷神社は豊受比売命を祀る。社殿は安政7年(1860)のものという。
補足
最初は天から降ってきた伊勢神宮のお札を祀っていたという伝承は、御蔭参りを彷彿とさせる。とすると、むしろ伊勢参宮が流行った年に遙拝所として勧請されたという天祖神社(神明社)の創建に関わるのではないだろうか。もともと神明社が先にあり、その後、八幡神社が創建された、あるいは他所から遷されてきたというようなことがあったのかもしれない。
写真帖
メモ
鳥居の脇の社号標には勝利八幡と山谷稲荷の名前が並んでいる。隣は児童公園になっていることもあり、明るい雰囲気の境内である。
勝利八幡神社の概要
名称 | 八幡神社 |
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通称 | 勝利八幡神社 |
御祭神 | 応神天皇〔おうじんてんのう〕 〈合祀〉 宇迦之御魂命〔うかのみたまのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都世田谷区桜上水三丁目21番6号 |
創建年代 | 万寿3年(1026) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 10月体育の日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月上午の日/初午祭 2月17日/祈年祭 6月30日/大祓式 11月23日/新嘗祭 12月31日/大祓式 ※『平成「祭」データ』による |
交通アクセス
□京王線「桜上水駅」より徒歩約8分