海神社は神功皇后が三韓からの凱旋の砌、当地で綿津見三神を祀ったことを鎮座の由来とし、古くから明石海峡の守り神として崇敬されてきた。延喜の制では名神大社に列する。江戸時代には日向大明神と称していたが、明治4年(1871)海神社の旧称に復した。
正式名称 | 海神社〔わたつみじんじゃ/かいじんじゃ〕 |
---|---|
御祭神 | 底津綿津見神 中津綿津見神 上津綿津見神 〈相殿〉大日孁貴尊 |
社格等 | 式内社(名神大・月次新嘗) 旧官幣中社 別表神社 |
鎮座地 | 兵庫県神戸市垂水区宮本町5-1 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://kaijinjya.main.jp/ |
御朱印
(1)平成16年拝受の御朱印。中央下の朱印は「海神社」。戦前の御朱印から「官幣中社」の文字を除いたもののようである。上の印は波に菊の神紋。揮毫も「海神社」。
(2)令和4年拝受の御朱印。中央下の朱印は「海神社」、上は波に菊の神紋で平成16年のものと同じ。右上に「播磨之國」。
昔の御朱印
(1)明治15年(1882)の御朱印。木版の印刷物に朱印を押したもの。「播磨國國幣中社/海神社/社務所」。当時はまだ国幣中社であった。中央の朱印は「海神社」。左下の印は白抜きで「播磨國海神社社務所」。
(2)昭和4年(1929)の御朱印。中央上の朱印は「海神社」、下は白抜きで「播磨國海神社社務所」。どちらも明治15年のものと同じもののようである。
(3)昭和5年(1930)の御朱印。中央の朱印は「官幣中社 海神社」。右上の印は「播磨 官幣中社」、左下は白抜きで「播磨國海神社社務所」。
(4)昭和15年(1940)の御朱印。中央の朱印は「官幣中社 海神社」、昭和5年の朱印と同じ。上の印は波に菊の神紋。
御由緒
御祭神
■底津綿津見神
■中津綿津見神
■上津綿津見神
〈相殿〉
■大日孁貴尊
綿津見三神は、伊邪那岐命が黄泉の国より戻り、「筑紫の日向の橘の小戸の檍原」で禊をしたときに誕生した神である。大綿津見神とは同神とする説と別神とする説がある。
創建の由緒により、航海安全・漁業繁栄の神として古くから信仰を集めている。古代以来当地が水陸の交通の要衝であったことから交通安全の神としても信仰される。また安産の神、開運厄除けの神、水産業や農業をはじめ水によって生計を立てている人々の守護神でもある。
相殿の大日孁貴尊は天照皇大神のことである。
社号について
江戸時代には日向大明神と称していたが、明治4年(1871)国幣中社列格に際し、延喜式神名帳にある「海神社」に復した。
文化元年(1804)に刊行された『播磨巡覧名所図会』には「垂水神社」として記載され、「日向大明神と称す」とある。また漁業・農業・商売などすべての家業繁栄・家運隆昌・衣食住満足の神として「衣財田〔えたからだ〕大明神」とも称された。
『播磨名所巡覧図会』や『垂水町勢要覧』(昭和11年)は御祭神の誕生地(筑紫の日向の橘の小戸の檍原)に因んで日向大明神と称したのだろうとする。
「海」の読み方について、延喜式神名帳の武田本には「タルミノ」、九条家本には「アマ」の訓が付されている。
『神社覈録』は「アマ」を採り、「印本タルミと点せり、またワタツミとも読り、出雲本タルミの仮字に従へり、然れど海ノ字タルミと読る例なければ、今海氏の神としてアマと読り」とする。明石国造であった海〔あま〕氏(姓は直)が祖神を祀ったことから「海(あま)神社」と称したと考えられる。
一方、「タルミ」については、『新抄格勅符抄』に「播磨明石垂水神」が見え、古くは当社を「垂水神」と称していたことによると考えられる。
本居宣長は御祭神の名に倣って「ワタツミ」と読むべきだと唱えた。現在は本居宣長の説に従い「ワタツミ」を正式な読み方とするが、地元では音読みで「カイ」すなわち「かいじんじゃ」と呼ばれる。
昭和12年(1937)に日本放送協会がまとめた「神宮及官国幣社一覧」(日本放送協会が神宮及び官国幣社の社号・祭神名、神道用語の読み方を示した資料)には「カイ」のみが示され、当該神社または地元役場等に確認したことを示す*マークが付されている。他の神社では正式名称と通称が併記されている例もあるので、戦前には「かいじんじゃ」がほぼ正式名称として定着していたことがわかる。
由緒
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐から凱旋の途次、当地の海上で暴風雨に遭い、御座船が前に進めなくなった。そこで皇后自ら斎戒して綿津見三神をお祀りしたところ、暴風雨がおさまったという。その地に社を建立して綿津見三神を鎮斎したのが当社の創祀とされ、これは『日本書紀』に記された廣田神社・生田神社・長田神社・住吉大社の創建に関する伝承とほぼ同じである。
古くは明石国造〔あかし の くにのみやつこ〕であった海直〔あま の あたい〕が祖神を奉斎したものであろうという。『先代旧事本紀』の「国造本紀」には大倭直〔おおやまと の あたい〕と同祖・八代足尼〔やしろ の すくね〕の子の都弥自足尼〔つみじ の すくね〕を明石国造に定めたと記されている。
大倭直の祖・椎根津彦は、国造本紀では彦火々出見尊の孫とするが、系図資料などでは海神豊玉彦(綿積豊玉彦)の曾孫とされる。また『続日本紀』神護景雲3年6月条に播磨国明石郡の海直溝長ら19人に大和赤石連の姓を賜ったという記事がある。
海上交通の要衝に位置することもあり、古くから海上鎮護の神として篤く崇敬された。
大同元年(806)の『新抄格勅符抄』に播磨明石垂水神に神封十戸が寄進されていることが見え、これが文献上の初出とされる。
また『三代実録』の貞観元年(859)正月27日条には播磨国従五位下海神に従五位上が奉授されたことが記されている。「延喜式神名帳」には海神社三座とあり、名神大社に列して祈年・月次・新嘗の官幣に預かっている。
中世には戦乱で社殿が兵火にかかり、社領も横領されるなどして社勢が衰えた。
鎌倉・南北朝時代の播磨国の地誌である『峯相記』には「垂水の大明神は因州上宮御子とも申す説あり。海明神、衣財田明神四座委細分明ならず」とある。「四座」とあるように、この頃には大日孁貴尊が祀られるようになっていたのであろうか。
天正11年(1583)豊臣秀吉は垂水郷山内の山銭を祈祷料として寄進。江戸時代には明石藩主より社領二石が寄せられた。また毎年2月に藩主が参拝するのを例としたという。
万治3年(1660)本殿を改築、延享2年(1745)西垂水・東垂水・塩屋など氏子9郷が分担して社殿の修造が行われた。
文化元年(1804)の『播磨名所巡覧図会』には「垂水神社 西垂水にあり。式内。日向大明神と称す。神名帳海神神社 三社。例祭八月十五日」とある。また挿絵には「垂水神社日向明神」「源忠国公(松平忠国)より二石余の祭料、秀吉公祈祷料として御寄附の山あり。その山摂播にありて、樵者銭を以て換う」とある(ただし社領2石について、日本歴史地名大系『兵庫県の地名』は『兵庫県神社誌』を引用して小笠原忠真の寄進とする)。
明治4年(1871)国幣中社に列格、社号を延喜式神名帳にある海神社に復した。明治30年(1897)官幣中社に昇格した。
当社と伊和神社(宍粟市)・粒坐天照神社(たつの市)を合わせて播磨三大社とされるという。
例祭は10月11日。10日から12日の3日間、秋祭りとして4台の布団太鼓の巡行などが行われる。12日の神幸祭には神輿を乗せた御座船が約20艘の船を従えて海上渡御を行う。
特殊神事の「百燈明祈願神事」は神前に種油による百の燈明を献じ、諸祈願を行うというもので、1月1日から15日に行われるという。
写真帖
メモ
JR・山陽電鉄の垂水駅のすぐ南側に風格のある木造社殿が鎮座する。一の鳥居の前を国道2号線(旧西国街道)が通る。その南の馬場先浜に浜大鳥居が建ち、垂水漁港がある。高さ12メートルという浜大鳥居が建立されたのは昭和32年(1957)だが、当時、周辺は砂浜だったという。その後の埋め立てで海岸線は南に移動したが、松の木の茂る境内が海辺の神社らしい風情を感じさせる。
初めての参拝は平成16年。その後、平成19年にも参拝したが、この時は朝の時間帯で、御朱印はいただかなかった。令和4年に3度目の参拝。風格のある社殿は変わらなかったが、境内参道脇の松の木が何本かなくなっていたようだ。
海神社の概要
名称 | 海神社 |
---|---|
旧称 | 垂水神社 日向大明神 衣財田大明神 |
御祭神 | 底津綿津見神〔そこつわたつみのかみ〕 中津綿津見神〔なかつわたつみのかみ〕 上津綿津見神〔うわつわたつみのかみ〕 〈相殿〉 大日孁貴尊〔おおひるめのむちのみこと〕 |
鎮座地 | 兵庫県神戸市垂水区宮本町5番1号 |
創建年代 | 伝・神功皇后摂政元年(201) |
社格等 | 式内社 旧官幣中社 別表神社 |
延喜式 | 播磨國明石郡 海神社三座 並名神大 月次相嘗 |
例祭 | 10月11日 ※10月10日~12日/秋祭り(布団太鼓巡行) ※10月10日/宵宮祭 ※10月12日/神幸祭(海上渡御) |
神事・行事 | 1月1日~15日/百燈明祈願神事 1月9日~11日/初ゑびす 1月10日/とんど祭 2月3日/節分・厄除かわらけ神事 7月10~12日/夏祭 7月海の日/海の記念日祭 8月13日~15日/海の幸みたま祭 |
巡拝 | 神仏霊場73番(兵庫県8番) |
交通アクセス
□JR神戸線「垂水駅」より徒歩1分
□山陽電鉄本線「山陽垂水駅」より徒歩1分