産千代稲荷神社は、慶長年間(1596~1615)関東代官頭となった大久保長安が八王子に陣屋を設けた際、鬼門除けの守護神として奉斎したことに始まると伝えられる。大久保家が改易になった後もそのまま残され、小門宿(現・小門町)の鎮守とされた。境内は「大久保石見守長安陣屋跡」として八王子市の史跡に指定されている。
正式名称 | 産千代稲荷神社〔うぶちよいなりじんじゃ〕 |
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御祭神 | 倉稲魂命 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都八王子市小門町82番地 [Mapion|googlemap] |
最寄り駅 | 八王子(JR中央線・横浜線・八高線) 西八王子(JR中央線) バス停:織物組合前 |
御朱印
平成17年拝受の御朱印。中央上の朱印は「神璽」と思われる。右下は抱き稲の神紋、左下は「宮司之印」。
御由緒
産千代稲荷神社は、八王子横山十五宿の一・小門宿〔おかどしゅく〕(現在の小門町)の鎮守。当地に伝わる狐伝説から、安産・福徳の神としての霊験があるという。
小門宿は、甲州街道沿いの八幡宿・八木宿の南の裏通りにあり、宿内に大久保長安の陣屋跡がある。大久保氏の屋敷裏門前にあった公事宿を御門宿・於門宿と呼んだのが地名の由来と伝えられる。
天正19年(1591)関東代官頭となった大久保石見守長安は八王子に8,000石の所領を与えられ、当地に陣屋を設けた。その周囲には関東十八代官の陣屋も配置されていた。長安は八王子宿を建設し、浅川に土手を築き、八王子千人同心を創設するなど、現在の八王子の町の基礎を造った。
伊奈忠次などと関東領国支配の中心となり、関ヶ原の合戦の後は石見・佐渡・伊豆の金銀山の開発や東海道・中山道の宿駅制度の確立、江戸・駿府・名古屋の築城などに卓越した手腕を発揮するなど、江戸幕府初期の財政基盤の確立に貢献した。
当社は、大久保長安が陣屋内の鬼門除の守護神として奉斎したのが始まりで、千代に続くようにとの願意から「産千代稲荷」と名付けられたと伝えられる。
慶長18年(1613)長安は69歳で没するが、その後、生前の金銀隠匿・幕府転覆の陰謀が発覚したとして7人の息子は全員処刑された。
『新編武蔵風土記稿』によれば、元禄年間(1688~1704)の絵図では陣屋の西・南・北の三方の土塁が残っていたが、次第に取り崩されて畑地となり、文化・文政の頃(1804~31)の頃には当社が鎮座する西の土塁2間四方だけが残るのみになっていた。境内に大木が多数繁茂していたことから、稲荷森と称された。
昭和20年(1945)5月1日、村社に昇格するが(『官報 第5497号』昭和20年5月14日による)、同年8月2日の八王子大空襲で社殿が焼失。現在の社殿は昭和29年(1954)の再建である。
なお、当社境内は昭和39年(1964)当社境内は「大久保石見守長安陣屋跡」として八王子市の史跡に指定された。
写真帖
メモ
JR八王子駅と西八王子駅のほぼ中間に鎮座する。道の西側に土塁の跡らしい石垣があり、その上が境内になっている。社頭には大きな「大久保石見守長安陣屋跡」の標石が建つ。
大久保長安の陣屋があった位置はわかってないそうだが、産千代稲荷神社の境内が陣屋の西の端の土塁とされる。広い境内ではないが、これが土塁の跡とすれば、かなり規模が大きかったであろうことが想像できる。
産千代稲荷神社の概要
名称 | 産千代稲荷神社 |
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旧称 | 稲荷社 |
御祭神 | 倉稲魂命〔うかのみたまのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都八王子市小門町82番地 |
創建年代 | 慶長年間(1596~1615) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 8月第2日曜日/2月初午日 |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭 6月30日/大祓式 12月31日/大祓式 ※『平成「祭」データ』による |
交通アクセス
□JR中央線「八王子駅」より徒歩約15分、またはバス
■京王バス館ヶ丘団地・高尾山口駅行き「織物組合前」下車徒歩3分
□JR中央線「西八王子駅」より徒歩約15分