武蔵御嶽神社は御岳山の山頂に鎮座し、関東有数の山岳霊場として信仰を集めてきた。社伝によれば、崇神天皇7年(110)の創建とされる。天平8年(736)行基菩薩が蔵王権現を奉安、延喜の制では地主神の大麻止乃豆乃天神社が小社に列した。文暦元年(1234)大中臣国兼が四条天皇の勅により再興、大麻止乃豆乃天神社を合祀して神式に改めた。慶長11年(1606)徳川家康の命により大久保長安を普請奉行として社殿を再建、江戸城守護のため南向きだった社殿を東向きにしたという。大口真神(おいぬ様)の信仰でも知られる。
正式名称 | 武蔵御嶽神社〔むさしみたけじんじゃ〕 |
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御祭神 | 櫛真知命 大己貴命 少彦名命 廣國押武金日命 |
社格等 | 式内論社 旧府社 (単立神社) |
鎮座地 | 東京都青梅市御岳山176 [Mapion|googlemap] |
最寄り駅 | 御嶽(JR青梅線) 御岳山(御岳登山鉄道) |
公式サイト | http://musashimitakejinja.jp/ |
御朱印
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(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は「武蔵御嶽神社」。右下の印は杉に「奥多摩霊峯」、左下は「武州御嶽鎮座」。
(2)平成26年拝受の御朱印。中央の朱印は「武蔵御嶽神社」。左上の印は「月の御嶽」、右下は杉に「奥多摩霊峯」、左下は「武州御嶽鎮座」。
(3)平成29年に拝受した酉年式年限定の御朱印。中央の朱印は「武蔵御嶽神社」。右上に金の尾長鶏、左下に銀のおいぬ様(大口真神)。
摂社・産安社の御朱印
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(1)平成29年拝受の御朱印。中央の朱印は「攝社 産安社」。
昔の御朱印
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(1)明治35年(1902)の御朱印。中央の朱印は雲に「御嶽神社御璽」。左下は「御嶽神社社務所之印」。
(2)昭和16年の御朱印。中央の朱印は「武蔵御嶽神社」、右上は杉に「武州御嶽山鎮座」。
御由緒
御祭神
■櫛真智命
御岳山の地主神で式内社とされる大麻止乃豆乃天神社〔おおまとのつのあまつかみのやしろ〕の御祭神。亀の甲や鹿の肩骨を焼いて占いをする「太占〔ふとまに〕」を掌る神で、卜占を業とする人々から崇敬されていた。一説には天児屋根命の別名、あるいは父神ともいう。
■大己貴命
■少彦名命
国造りの神で、特に医療や禁厭〔まじない〕、酒造、温泉などの神として信仰される。
■廣國押武金日命
第27代安閑天皇。蔵王権現と同一視され、『和漢三才図会』には崩御4年後の宣化天皇3年(538)金峯山に現れて「我は廣國押武金日丸なり」と告げたので、蔵王権現が安閑天皇であることが知られたという伝承が記されている。そのため、江戸時代以前に蔵王権現を祀っていた神社では、明治の神仏分離後に御祭神を安閑天皇に改めたところが多い。
御由緒
奥多摩の霊峰・御岳山(武州御岳)に鎮座する武蔵御嶽神社は、古くから関東の霊山として信仰を集め、蔵王権現を祀る修験の霊場として繁栄してきた。木曽の御嶽神社(木曽御岳)を「雪の御嶽」、甲斐国の金峰山金櫻神社(甲州御岳)を「花の御嶽」というのに対し、武州御岳の武蔵御嶽神社は「月の御嶽」と称されるという。
社伝によれば、崇神天皇7年(B.C.91)四道将軍の一人として東海に派遣された武渟川別命〔たけぬなかわのみこと〕が大己貴命・少彦名命を祀ったことを創祀とする。
景行天皇40年(110)日本武尊が東征の途次、白狼の先導によって難を逃れたと伝えられる。この時、尊が奥の院に武具を納めたのが「武蔵」の名の由来という伝承もある。
天平8年(736)行基菩薩が勅を受けて東国へ下向、御岳山は日本武尊の古蹟であり、東国鎮護の源であるとして、堂宇を建立し、蔵王権現の像を安置した。
延喜の制では地主神の大麻止乃豆乃天神社が小社に列された(※ただし、大麻止乃豆乃天神社については稲城市の大麻止乃豆乃天神社(旧称:丸宮明神)を当てる説もある)。
以来、関東における修験の一大中心となり、特に鎌倉時代には金峯山御嶽蔵王大権現として鎌倉幕府や有力な武将達から信仰を集めた。特に「坂東武者の鑑」と称された畠山重忠は鎧・鞍・太刀などを奉納したと伝えられる。重忠が奉納したとされる赤糸威大鎧は国宝に指定されている。
その後、兵火で荒廃したが(社伝によれば、畠山重忠がこの地を領有し、御岳山に城を構えたが、後に北条時政の謀略によって重忠が打たれた際、城郭社殿悉く焼失したという)、文暦元年(1234)前摂政・九条道家が四条天皇に奏上、勅をもって大中臣国兼を祭祀の司職とし、社殿等を再興させた。この時、鎌倉将軍・藤原頼経(九条道家の子)は神領として永銭36貫文の地を寄進した。
司職となった大中臣国兼は、地主神の大麻止乃豆乃天神社を合祀して仏式から神式に改め、御嶽山大権現と号するようになったという。
南北朝時代から室町時代にかけても武家の崇敬は篤く、延文4年(1359)には将軍・足利義詮が神馬を奉納、鎌倉公方・足利基氏が諸社堂塔を修築した。永享8年(1436)には関東管領・上杉憲実が神領を寄進するなど、武将達の祈願や寄進がたびたびであったという。
天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、山上一里の地と旧領30石を朱印地として賜った。慶長11年(1606)には家康の命により、大久保長安を普請奉行として社殿を再建。この時、江戸城鎮護の祈願所として、従来南面していた社殿が東向きに改められた。現在の幣拝殿は元禄13年(1700)5代将軍・徳川綱吉の命によって造営されたものである。
江戸時代の半ばになると関東一円に信仰が広がり、各地に講が組織された。ここで活躍したのが御師〔おし〕たちで、『新編武蔵風土記稿』には「御師三十三軒。大宮司の住居の辺より二の鳥居近き処まで散住せり」と記されている。
当時、一山の運営は大宮司と社僧、御師の三者が合議して行っていた。大宮司は本社内陣の管理と牛王の祈祷札の発行、社僧は本社外陣の管理と護摩札の発行を行っていた。社僧寺の世尊寺は醍醐寺三宝院の末であったが、天明8年(1788)廃寺となった。
御岳山の御師たちは夏・秋・冬の三度檀家廻りを行い、札を配った。檀家は武蔵・相模を中心として上野・下野・常陸・下総・上総・甲斐など十数万に及んだという。また、太々神楽の奏上も御師たちによって行われた。
現在も御師たちは社家として神社に奉仕しており、本社の手前には御師たちの営む宿坊が並んでいる。
明治の神仏分離により、山内の仏堂や仏具が取り除かれた。明治2年(1869)社号を大麻止乃豆乃天神社と改め、式内社に比定するよう上申した。明治7年(1874)県社(神奈川県)に列格し、御嶽神社と改称する。明治11年(1878)現在の本殿を造営。明治26年(1893)三多摩の東京府移管に伴い、東京府の府社となった。
戦後は神社本庁傘下の宗教法人となるが、昭和27年(1952)包括関係を解消して単立法人となり、武蔵御嶽神社と改称した。
おいぬ様(大口真神)
社伝によれば、日本武尊は東征の途中、上州より武蔵に入り、御岳山に陣を敷いた。さらに北西へ山道を越えていこうとすると、邪神が大きな白鹿と化して道をふさいだ。尊は山蒜で白鹿を斃すが、山谷が鳴動して雲霧が湧き立ち、道に迷ってしまった。そこに忽然と白狼が現れ、尊たちを導いたので、無事に進軍することができた。そこで尊は白狼に「これより御岳山に帰り、火災盗難を守護すべし」と告げたという。
以来、御岳山では狼(山犬、おいぬ様)を御眷属・大口真神〔〕と称するようになり、特に江戸時代以降、火災・盗難除け、魔除けの守護神として広く信仰されるようになった。また、現在では「おいぬ様」に因んで愛犬の健康祈願でも信仰を集めるようになっている。
因みに、本殿の狛犬は江戸時代の文化5年(1808)に奉納されたものだが、山犬の姿をした珍しいもの。また、幣拝殿前の狛犬は長崎の平和祈念像を製作した北村西望の作で、力強い狼の姿をしている。
摂社 産安社
産安社は武蔵御嶽神社の境外摂社で、江戸時代には浅間山と呼ばれた富士峰園地に鎮座する。御祭神は木花開耶毘売命、石長比売命、息長帯比売命(神功皇后)の三柱の女神。
文治年間(1185~89)源頼朝によって創建されたと伝えられ、古くから安産・子育て・長寿の神として信仰を集める。また、社殿の傍には御神木の「子授け檜」「夫婦杉」「安産杉」もある。
週末や祝日など、神職さんがいるときには御朱印をいただくことができる。
摂社 男具那社
男具那社は、奥の院の中腹に鎮座する境外摂社で、日本武尊を祀る。奥の院は標高1077mの美しい円錐状の峰で、日本武尊が東征の際、ここに武具を埋めたのが「武蔵」の名の由来という伝承もある。
武蔵御嶽神社からは大岳山方面に徒歩約1時間。また、本殿後方には遙拝所が設けられ、その姿を拝することができる。
主な摂末社
■大口真神社
御祭神は御眷属・大口真神。神符は「おいぬ様」と崇められ、江戸時代以降、盗難・火災・魔除けの守護神として戸口に貼る風習が広がった。
■常磐堅磐社
御祭神は全国の一宮の神々。社殿は旧本殿で、室町時代の建築。明治11年(1878)現在の本殿が造営された際に移築、常磐堅磐社とされた。国の重要美術品、都の有形文化財に指定されている。
■皇御孫命社
御祭神は天瓊々杵尊。社殿は小振りながら精巧な造りで、軒下に三つ葉葵の紋があることから、元は東照社であったと考えられている。
見どころ
■御岳の神代ケヤキ
樹高約30m、幹周8.2m、樹齢は約600年。社伝では、日本武尊が御岳山に武具を納めた頃にはすでに生えていたとも、尊が植えたともいう。昭和3年(1928)国の天然記念物に指定された。
■畠山重忠像
宝物館の前にある。昭和56年(1981)百年式年記念事業として建立されたアルミ鋳造の騎馬像で、作者は長崎の平和祈念像を制作した北村西望。
■霊山神土碑
明治20年(1887)建立。題字は外務卿・副島種臣、詠は本居豊頴、書は山岡鉄舟。御岳山の土を田畑に撒くと、土の霊力によって虫の害を防ぐという御神徳が刻まれている。
写真帖
産安社
神代欅から宝物館
社殿
玉垣内
メモ
標高929mの御岳山山頂に鎮座する。遙かに都心を望む山岳霊場だが、ケーブルカーによって年間を通して気軽に参拝することができる。
ケーブルカーの御岳山駅から宿坊街(御師集落)へはあまり標高差がなく、道も整備されている。境外摂社の産安社は手前の富士峰園地に鎮座しており、リフトを使うこともできる。
宿坊街を抜けると大鳥居と随神門があり、月の御坂と呼ばれる石段を登る。突き当たりで右を見上げると、元禄年間の造営という幣拝殿が建っている。本殿の周囲には大口真神社などの摂末社が並び、山上の霊域を形成している。
初めての参拝は、20数年前、山上の宿坊を会場として行われた研修会に参加したときであった。東京で就職して間もない頃で、参加することになって初めて御岳山の存在を知った。無論、それ以前に四国八十八ヶ所を巡拝していたし、故郷にも石鎚山など山岳霊場は多かったので、山中に大きな社殿や堂塔伽藍があること自体に驚きはなかったが、山頂に豪華な彫刻の施された朱塗りの社殿が建っているという光景は初めてで、非常に感心したものである。
その後、何度か参拝したが、初めて御朱印をいただいたのは平成18年の1月。その次は、頒布が開始された御朱印帳をいただくため、平成26年1月に参拝。人混みのない時に写真を撮りたかったことと、夏場の暑さを避けたかったため、いずれも冬場の参拝であった。
しかし、平成29年酉年の式年では、個人的な諸事情でなかなか時間がとれなかったことと、産安社の御朱印をいただきたかったことから、参拝者の多い11月の週末に参拝。紅葉が美しく、やはり人が多い季節はそれだけの価値があることを再確認した。
武蔵御嶽神社の概要
名称 | 武蔵御嶽神社 |
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旧称 | 御嶽大権現 大麻止乃豆乃天神社 御嶽神社 |
御祭神 | 櫛真智命〔くしまちのみこと〕 大己貴命〔おおなむちのみこと〕 少彦名命〔すくなひこなのみこと〕 廣國押武金日命〔ひろかねおしたけかねひのみこと〕(安閑天皇) 〈奥宮〉 日本武尊〔やまとたけるのみこと〕 〈御眷属〉 大口真神〔おおくちまがみ〕 |
鎮座地 | 東京都青梅市御岳山176番地 |
創建年代 | 伝・崇神天皇7年(B.C.91) |
社格等 | 式内社(論) 旧府社 |
延喜式 | 武蔵国多磨郡 大麻止乃豆乃天神社 |
例祭 | 5月8日(日の出祭) |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭 1月3日/太占祭 2月3日/節分祭 3月8日/春季祭(祈年祭) 6月30日/夏越しの大祓 9月29日/流鏑馬神事 11月8日/秋季祭(新嘗祭) |
文化財 | 〈国宝〉赤糸威鎧 円文螺鈿鏡鞍 〈重要文化財〉紫裾濃鎧 鍍金長覆輪太刀 宝寿丸黒漆鞘太刀 〈重要美術品〉旧本殿 宝寿丸太刀 鉄製俵 〈天然記念物〉御岳の神代欅 〈都有形文化財〉旧本殿 銅製鰐口(一口) 鉄製俵形賽銭箱 〈都無形民俗文化財〉太々神楽 〈都名勝〉奥御岳景園地 |
交通アクセス
□御岳登山鉄道「御岳山駅」より徒歩25分
※JR青梅線「御嶽駅」より西東京バスで「ケーブル下停留所」へ。「滝本駅」からケーブルカーに乗り、「御岳山駅」に向かう。
更新履歴
2006.01.29.公開
2018.02.20.改訂、WPへ移行、御朱印・画像を追加。