寛政7年(1795)浄土真宗の順拝帳。寛政2年(1790)の順拝帳とともに真宗の順拝帳としてはごく初期のものと考えられ、参拝記念の刷り物から順拝帳の御判へと移行していく過程がよくわかる貴重な資料である。
真宗寺院を中心とする51ヶ所の御判・納経が収められているが、ここでは中盤の18ヶ所を紹介する。近江国の大津から京都に入り、再度近江に入って琵琶湖西岸を北上、越前から加賀に向かっている。
順拝帳の概要については寛政7年(1795)浄土真宗の順拝帳と寛政年間 浄土真宗の順拝帳を参照。
近松別院
【右】近松別院
近松御坊(本願寺近松別院)
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:近江国滋賀郡大津町(滋賀県大津市札の辻)
公式サイト:https://tikamatu.wixsite.com/tikamatu-betuin
■刷り物を貼り付けている。版木押しで「江州志賀郡大津/蓮如上人御跡/近松御坊/一等身御影 蓮如上人御筆/一同御写御影 法如上人御筆/其余畧之/役僧 正福寺」。日付はない。左下の黒印は判読できない。
★江戸時代以前には近松御坊・近松山顕証寺と号した。寛正6年(1465)比叡山の衆徒に大谷本願寺を破却された蓮如上人は、親鸞聖人の像を携えて京の市中や近江を転々とした。文明元年(1469)三井寺万徳院の住職・長命の援助により大津南別所に近松坊を建立、親鸞像を安置した。これが近松別院の始まりである。その後、蓮如は越前の吉崎御坊に移るが、親鸞像は文明12年(1480)山科本願寺に移されるまで近松御坊に祀られた。また、蓮如の長男・順如は近松坊にあって父を補佐していた。順如の没後、蓮如の六男・蓮淳が近松顕証寺に入る。後に蓮淳は河内の西証寺(後の顕証寺。大阪府八尾市)に移るが、当寺を拠点として湖西の門徒を統括した。江戸時代は河内顕証寺が住職を兼帯、正福寺と光現寺が留守居の看坊であった。
★文明9年(1477)蓮如上人は近松顕証寺に等身大の親鸞等身絵像を下付した。安永5年(1776)この像は西本願寺に返納され、代わりに本願寺18代文如より新写の絵像が下付された。御判にある2幅の等身の御影はこれらのことであろう。
★正福寺は近松御坊の看坊で、近松別院そばに現存する。
仁和寺/仏光寺東山本廟
【右】仁和寺
大内山 仁和寺 ※通称/御室御所
宗派:真言宗御室派総本山
所在地:山城国葛野郡御室門前村(京都市右京区御室大内)
公式サイト:https://ninnaji.jp/
■墨書は「奉納経/御室御所 伽藍」、日付は「寛政七乙卯歳六月九日」。上の朱印は十六八重菊の御紋、中央は「忎和寺」。「忎(上が「千」、下が「心」)」は「仁」の古字。
★仁和2年(886)光孝天皇が御願寺として造営を始めたが、翌年、完成を見ないまま崩御された。その遺志を継いだ宇多天皇により仁和4年(888)落成した。宇多天皇は譲位後の昌泰2年(899)出家して当寺に入り、寛平法皇と称された。代々皇族が入り、最初の門跡寺院となった。仁安2年(1167)には総法務の宣下を受け、諸宗本山の最上位に置かれた。
【左】仏光寺本廟
仏光寺東山御坊(仏光寺本廟)
宗派:真宗佛光寺派
所在地:山城国愛宕郡粟田口村(京都市東山区粟田口鍛冶町)
公式サイト:http://www.bukkoji.or.jp/honbyo/index.html
■刷り物を貼り付けている。版木押しで「開山聖人御廟所/佛光寺御門跡東山御坊/輪番」。日付はない。左下の朱印は判読できない。
★佛光寺は、寺伝によれば越後流罪を赦免された親鸞聖人が建暦2年(1212)京都に戻り、山科に一宇を建立したことに始まる。後に寺基を東山の今比叡汁谷(京都国立博物館のあたり)に移し、最盛期には本願寺を遙かにしのぐ繁栄を誇った。天正14年(1586)豊臣秀吉が東山大仏殿を造営するに当たり、五条坊門の現在地に移された。
★佛光寺本廟は、華頂山東麓に佛光寺門跡の墓所があったことを縁として、佛光寺20世尭庸が当地を購入、佛光寺境内にあった廟堂を移したことにはじまる。本堂には足利尊氏寄進の金銅舎利塔に親鸞聖人の真骨と肉付きの歯を納めるという。御判にある「開山聖人」は親鸞聖人のこと。
本福寺
【左】本福寺
夕陽山 本福寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:近江国滋賀郡本堅田村(滋賀県大津市本堅田)
■刷り物を貼り付けている。版木押しで「江州志賀郡堅田庄/夕陽山本福寺/一本尊阿弥陀如来 慈覺大師御作/一登山名號 祖師聖人御筆/蓮如聖人御跡/一祖師蓮師二尊像 蓮如聖人御自画/一問答御書 仝上人御真毫/此外寶物數品畧之/當番役者」。日付はない。左下の黒印は「夕陽仙」であろう。
★正和年間(1312~17)御上神社(滋賀県野洲市)の神職をやめて流浪していた善道が堅田に到り、本願寺3代覚如に帰依、剃髪したことに始まる。2代覚念は禅宗に改宗するが、3代法住が浄土真宗に復帰した。当初、法住は大谷本願寺の衰退と佛光寺の繁栄を見て佛光寺に属するが、後、本願寺に帰参、直末寺となった。蓮如の代になると湖西の拠点として長禄4年(1460)には十字名号(登山名号)を、寛正2年(1461)には親鸞蓮如連坐像(祖師蓮師二尊像)を蓮如から下付される。寛正6年(1465)大谷本願寺が比叡山の衆徒に破却されると、蓮如は親鸞聖人像を携えて京の市中や湖南を転々とするが、応仁元年(1467)には当寺に入り、報恩講を行っている。翌応仁2年(1468)親鸞像は大津の道覚の道場(大津市長等の本福寺)に移されるが、延暦寺による堅田大責により本福寺と堅田の集落は焼き払われた。その後も4代明顕と養子の5代明宗が近江における本願寺門徒及び一向一揆の中核として活動するが、近松顕証寺(近松別院)に入った蓮淳(蓮如の六男)と対立。三度にわたって破門を受け、所領と門徒を失って衰退した。
超専寺
【左】超専寺
念仏山 宝幢院 超専寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:近江国滋賀郡大物村(滋賀県大津市大物)
■刷り物を貼り付けている。版木押しで「近江國志賀郡大物/念佛山寶幢院超専寺/高祖聖人御真弟二十四輩六老僧/第二番明空御房草創之地也/傳来宝物畧之/執事」。日付はない。右上の黒印は「御跡」、左下は判読できない。
★『二十四輩順拝図絵』に「北の坊宝幢院といふは常州下妻西木山光明寺より別れたる寺にして高祖聖人の真弟明空坊の流れ也といへり。また常州宍戸唯信坊の座を以て西派二十四輩の内第二十番とも云」とある。開基の明空は関東六老僧の一人で、三浦義村の子・駿河八郎胤村とされる。宝治合戦で一族が滅亡した後、京に上って親鸞の弟子となり、当寺を建立したという。晩年は常陸国に下り、下妻に光明寺を建立したと伝えられる。
※寛政2年(1790)の順拝帳にも御判がある。
有乳山御旧跡(光伝寺)
【左】有乳山御旧跡・光伝寺
有乳山 医王院 光伝寺(廃寺)
宗派:浄土宗
所在地:越前国敦賀郡山中村(福井県敦賀市中山)
■刷り物を貼り付けている。版木押しで「有乳山御跡/親鸞聖人御眞筆/三方正面阿弥彌如来/御詠歌 越路なるあらちの山に行つかれ あしもちしほに染るはかりそ/越前敦賀郡山中驛/光傳寺」。日付はない。中央の朱印は「佛法僧寶」の三宝印。左下の黒印は判読できない。
★山中は古代・中世の北陸道沿い、越前と近江の境にある七里半越(山中峠)の麓にあり、近世には西近江路の宿駅として栄えた。古くは中山と称し、『源平盛衰記』や『太平記』にもその名が見える。しかし幕末・明治初めの深坂越、新道野越の改良、さらに明治17年(1884)の鉄道開通によって往来の人が激減、衰退して現在は廃村となっている。
★親鸞聖人は越後の配所に向かう途中、有乳(あらち)山の峠(山中峠)を通ったが、難路のため石に躓き、つま先から血が流れ、痛みのため歩くのが難しくなった。そこで傍らの炭焼きの家に宿を乞うた。主人は米がないため小豆の塩粉を差し上げたところ、聖人は非常に喜んだ。この時「越路なるあらちの山に行き疲れ 足も血潮に染るばかりぞ」という歌を詠まれたという。この家は山中の小豆茶屋として名高かったが、明治の頃に廃絶した。
★光伝寺は浄土宗で有乳山医王院と号し、薬師堂の薬師如来は伝教大師の御作という(『敦賀郡誌』)。また、寺宝として親鸞聖人の御真筆という「三方正面阿弥陀如来」を伝えており、有乳山の御旧跡として門徒の順拝所となっていた。境内には文化11年(1814)に建てられた親鸞聖人の御詠歌の碑があった。『二十四輩順拝図絵』に寺の説明はないが、「荒乳山光傳寺」として挿絵が掲載されている。明治になって廃絶し、寺宝は高島郡下開田村(高島市マキノ町下開田)の栄照寺(真宗大谷派)に移されたという。
誠照寺/和田本覚寺
【右】誠照寺
上野山 九品院 誠照寺
宗派:真宗誠照寺派本山
所在地:越前国今立郡鯖江町(福井県鯖江市本町)
公式サイト:http://www.jyosyoji.jp/
■刷り物を貼り付けている。版木押しで「越州鯖江/上埜山誠照寺/執事 徳龍山西福寺」。日付はない。右上の朱印は「本寺■■」、左下の黒印は判読できない。
★三門徒(讃門徒)の流れを汲む越前四箇本山の一。寺伝によれば、親鸞聖人が流罪となって越後に赴く途中、越前上野ヶ原の領主・波多野景之の別荘で教えを説いた。景之は聖人に帰依し、ここを車の道場と称するようになった。その後、景之は親鸞聖人の五男・道性(益方入道有房)を招き、車の道場の住持とした。その息男・如覚は景之の寄進により現在の地に移り、後二条天皇より「真照寺」の勅額を賜ったと伝えられる。永享9年(1437)には後花園天皇より改めて「誠照寺」の勅額を下賜されたという。
【左】和田本覚寺
和田山 本覚寺 ※通称/和田本覚寺(『二十四輩順拝図絵』に和田本覚寺とある)
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:越前国足羽郡福井城下(福井県福井市松本)
※第二次大戦後、吉田郡永平寺町東古市に移転。
公式サイト:https://hongakuji.gionsyouja.com/
■刷り物を貼り付けている。版木押しで「越州足羽郡福井庄/和田山 本覚寺/開基親性 木像/六高僧 真影 寂如聖人御裏/法然聖人 真影 蓮如聖人■■■■/聖徳太子 二歳 十六歳 木像 御自作/其外霊寶數品畧之/當番 光専寺」、日付は不明。左下の黒印は判読できない。
★最盛期には越前・加賀に多くの門末を擁し、藤島超勝寺とともに越前門徒の中核となった。開基について、二十四輩順拝図絵などは二説を紹介している。一つは藤原秀郷6代の後裔・波多野出雲守義重の嫡男(『福井市史』によれば五男・忠正)が親鸞聖人に帰依して親性(信性)と称し、正嘉2年(1258)越前国吉田郡和田庄に一宇を建立したことに始まるとする。もう一つは覚如上人の弟子・三河国和田の信性坊の開基とするもので、現在では後者が有力のようである。元は高田派であったが応長元年(1311)覚如の教化を受けて本願寺に帰入し、本願寺7世存如のときに本覚寺と号するようになったという。永正3年(1506)越前の一向一揆で朝倉氏に破れた後、加賀国に逃れる。永禄11年(1568)朝倉氏と一向一揆の和睦により越前の戻り、堀秀政が北ノ庄(福井)城主であった頃、北ノ庄城下の柳町に移る。本願寺の東西分立においては、越前の本坊が西本願寺、加賀の通寺が東本願寺に属した(石川県小松市の小松本覚寺)。万治2年(1659)の大火の後、表御堂町(現・福井市松本)に移転。さらに昭和20年(1945)戦災で焼失したため、現在地に移転した。
★当番の光専寺は現存しないようだが、本覚寺の近くにあった寺のようで、大正11年(1922)の『本派本願寺寺院名簿』などにその名が見える。
常照寺/真宗寺
【右】常照寺
心光山 常照寺
宗派:真宗出雲路派
所在地:越前国足羽郡三十八社村(福井県福井市三十八社町)
■刷り物を貼り付けている。版木押しで「越前三十八社村/心光山常照寺」。日付はない。
★寺伝によれば、平康頼の子・康利が出家し、永仁4年(1296)三十八社村に一宇を建立したことに始まる。日本歴史地名大系『福井県の地名』によれば、元は専照寺(三門徒派本山)の末寺だったのではないかという。天正2年(1574)の一向一揆により三十八社村を退転、天正18年(1580)徳尾村(福井市徳尾町)に再興。慶長元年(1596)出雲路派に帰入し、天明7年(1787)現在地に移転した。
【左】真宗寺
橋立昌向山 真宗寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:越前国足羽郡福井城下(福井県福井市松本)
※昭和37年(1962)鯖江市鳥羽に移転
■刷り物を貼り付けている。版木押しで「越前福井/昌向山真宗寺/當山艸創者光實坊法善法師 姓佐々木三郎盛綱 之/開基也古在橋立村今移於福井住焉/天照太神夢瑞之阿弥陀如來 玄賓僧都作/聖德太子十六歳尊像 御自彫/祖師蓮師連座之御影 蓮如上人御畫/當院開基法善法師畫像 聖人御真筆/右之外靈寶數品畧之/執事 光養寺」。日付はない。
★寺伝によれば、佐々木三郎盛綱が親鸞聖人の弟子となって法善坊光実の法名を与えられ、越前国今立郡橋立村(鯖江市橋立町)に一宇を建立したことに始まる。また一説に、法善は盛綱の玄孫・佐々木三郎光実で、顕智(専修寺3世)の弟子となり、越前で布教をして橋立に一宇を建立したともいう。寛永5年(1628)福井城下に移転した。しかし昭和20年(1945)戦災で焼失、昭和37年(1962)鯖江市鳥羽の現在地に寺基を移した。
★執事の光養寺は現存しないようだが、真宗寺の近くにあった寺のようだ。『福井市史』(昭和16年)に「創立年月不詳。往古天台宗なりしが、天正十七年了道なるもの真宗に帰依転宗せり」とある。
福井東別院/福井西別院
【右】福井東別院
福井東御坊(真宗大谷派福井別院本瑞寺) ※通称/東御堂・福井東別院
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:越前国足羽郡福井城下(福井県福井市花月)
公式サイト:https://higashibetsuin.jp/
■墨書は「越前福井/本願寺懸所/役者」、日付は「卯六月十四日」。左下の黒印は「福井御坊役者」。
★北ノ庄(福井)九人衆の道場坊主が中心となって建立した北ノ庄総坊(総道場)に始まると伝えられる。慶長6年(1601)下総国結城から結城秀康が入部すると、北ノ庄総坊に結城から移ってきた本瑞寺を併せ、後の常盤町(福井市春山)に寺地を寄進して堂宇を建立。翌慶長7年(1602)東之御堂本瑞寺と称し、越前の東本願寺の末寺の総触頭とした。慶長15年(1610)には教如上人の三女・亀子姫(栄寿院教応禅尼)が初代住職として入り、東本願寺の連枝格となった。万治2年(1659)の大火の後、現在地に移転。延享元年(1744)7世性応が没した後は住職を廃し、本山が役僧を派遣する東本願寺掛所(別院)となった。
【左】福井西別院
福井西御坊(本願寺福井別院) ※通称/西御堂・福井西別院
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:越前国足羽郡福井城下(福井県福井市松本)
公式サイト:http://fukui-hongwanji.jp/
■墨書は「越前国福井/本願寺役所/当番 円覺寺」、日付は「卯六月十四日」。下の黒印は「福居御坊」。
★文明3年(1471)蓮如上人が吉崎御坊を建立。同7年(1745)上人が吉崎を退去した後、朝倉敏景の請を受け、一乗谷に移転したことを起源とする。天正13年(1585)北ノ庄城主・堀秀政が北ノ庄(後の福井)柳町に寺地を寄進、堀秀治の時代に堂宇を建立した。寛永17年(1640)本願寺12世准如の九男・理光院光恕が住職となる。万治2年(1659)の大火の後、現在地に移転した。
★当番の円覚寺は西別院境内に現存。『福井市史』には「往古天台宗にして欽仰寺と称す、佐理皇子龍泰院開基。年号不詳。第十七世天了院覚龍なるもの蓮如上人に帰依し真宗に改宗し、其後第二十三世善龍代に円覚寺と改称せり」とある。
※寛政2年(1790)の順拝帳にも御判がある。
吉崎東別院/法円寺
【右】吉崎東別院
吉崎御坊(真宗大谷派吉崎別院) ※通称/吉崎東別院
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:越前国坂井郡吉崎浦(福井県あわら市吉崎)
公式サイト:http://www.yoshizakibetsuin.com/
■墨書は「越州吉崎/本願寺掛所/願慶寺」、日付は「六月十五日」か。左下の黒印は「吉崎道場」。
★文明3年(1471)蓮如上人が吉崎山の頂に坊舎を建てたことに始まる。同7年(1475)蓮如上人が退去した後、永正3年(1506)加賀一向一揆の侵攻を退けた朝倉氏によって破却される。本願寺の東西分裂の後、吉崎門徒の多くは東本願寺に属し、毎年3月25日の蓮如忌には三条に仮屋を設け、蓮如上人の御影を掲げて法要を行っていた。東本願寺は吉崎総道場願慶寺を御坊留守居としていたが、享保6年(1721)本山掛所吉崎御坊を建立、延享4年(1747)再建。これが現在の吉崎東別院である。
※寛政2年(1790)の順拝帳にも御判がある。
【左】法円寺
法円寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:加賀国江沼郡上原村(石川県加賀市山中温泉上原町)
■墨書は「加州 上原 法圓寺/蓮如上人御跡/宝物畧之」、日付は「卯六月十六日」。右下の黒印は判読できない。
★『石川県江沼郡誌』によれば、長谷部信連十二世の末裔・秀連の家臣に土谷新五郎連之というものがおり、文明年間(1469~87)蓮如上人に帰依して、名を法円と改めた。そして文亀2年(1502)上原村に一宇を建立したのが法円寺の始まりという。
恩栄寺/燈明寺
【右】恩栄寺
白鳳凰山 恩栄寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:加賀国江沼郡山中村(石川県加賀市山中温泉湯の出町)
公式サイト:http://onneiji.net/
■墨書は「加州江沼郡山中/白鳳凰山恩栄寺/開基光實房 佐々木小三郎盛則實名/霊寶品目畧之」、日付はない。下の黒印は「恩榮寺」。
★寺伝によれば、開基の光実は俗名を佐々木小三郎盛則といい、越後に流される親鸞聖人に帰依、能美郡赤井村(能美市赤井町)に称名寺を建立した。本願寺9代実如上人の頃(1489~1525)、光実の子孫の兄弟がおり、弟が赤井の称名寺を継ぎ(現・小松市の称名寺)、兄は江沼郡大聖寺に称名寺を建立した。慶長年間(1596~1615)了永が寺号を恩栄寺と改め、本願寺の東西分立に際しては東本願寺に属した。よって了永を恩栄寺第一世とする。しかし享保13年(1728)7世恵教が西本願寺に転じたため、門徒が離反してしまった。享保17年(1732)大聖寺藩主・前田利章によって福井の本覚寺から智泉が招聘され、山中村に寺基を移して再興した。
【左】燈明寺
黒谷山 燈明寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:加賀国江沼郡山中村(石川県加賀市山中温泉栄町)
■刷り物を貼り付けている。版木押しで「蓮如上人御跡 加州山中 燈明寺/御文一帖目奥書云 文明第五九月下旬第二日/至于巳尅加州山中温泉湯治之内書集訖/此御地者今之燈明寺也因茲/其御文御真筆所持于今其余霊寶/多傳畧以不記」。
★開基の政念は俗名を富樫政昭といい、江沼郡黒谷城主であった。寺伝によれば、山中南別荘に隠棲していたが、文明5年(1473)湯治のために山中温泉を訪れた蓮如上人に帰依し、翌文明6年(1474)当寺を建立した。蓮如上人の御文の一帖目第十五通は、政昭の「なぜ親鸞の流派を一向宗と呼ぶのか」という質問に答えた内容をまとめたものという。
★御判の2行目「文明第五九月下旬~」から3行目の部分は御文一帖目の奥書である。4~5行目には、これを書いた旧地が現在の燈明寺であり、その御文の御真筆を所持しているというようなことが書かれている。
寿経寺/篠生寺
【右】寿経寺
無量山 寿経寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:加賀国江沼郡山中村(石川県加賀市山中温泉湯の出町)
■刷り物を貼り付けている。版木押しで「當寺往昔者爲台徒之精舎/文明之頃中古上人入浴温泉/之砌回心而為専修門人/加州山中無量山/蓮如上人御跡 壽經寺/靈寶多畧之」、日付はない。左下の黒印は判読できない。
★寺伝によれば、開基の尭空は越前一乗谷の城主・朝倉敏景の次男・民景で、越前国坂井郡の天台宗・豊原寺で出家した。後に豊原寺の末寺である山中の西照寺の住職となった。文明5年(1473)湯治のために山中温泉に滞在した蓮如に帰依し、真宗に改宗して無量山寿経寺の号を与えられたという。
【左】篠生寺
生龍山 御座 篠生寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:加賀国江沼郡動橋村(石川県加賀市動橋町)
公式サイト:http://joshoji.org/
■墨書は「蓮如上人旧跡 境内ニ/粽篠有霊宝畧之/加州動橋駅/生竜山御座/篠生寺(花押)」、日付はない。
★寺伝によれば、古くは生龍山地蔵院という真言寺院で、花山法皇が那谷寺を開創する際に行在所(御座所)としたという。文明7年(1475)蓮如上人が波佐谷(小松市波佐谷町)から吉崎御坊に戻る途中、動橋にさしかかったところで日が暮れた。そこで百姓の小右衛門宅に宿を乞うたところ、小右衛門の母親に断られた。そこで、母親が作っていた粽を一つ求めると、傍らの石を粽の笹に包んで渡した。上人が食べようとすると石が転がり出たので、小右衛門の母親が嘲って「それを食べれば一晩宿を貸そう」と言った。上人は「我勧める弥陀の本願偽りなくば、この笹より再び青葉を生ずべし。もし生ずるならば一夜の宿を貸し給われ」と言い、粽の笹を大地にさすと、茹でた笹がたちどころに根を張り、青葉を生じた。これを見た母親は五体を地に伏して前非を悔い、親子共々教えを受けて弟子となった。小右衛門は信証の法名を授かり、地蔵院に入って真宗に改めた。あるいは地蔵院の寺僧・慈雲も信を起こして蓮如の弟子となり、真宗に改宗したともいう。寛永11年(1634)火災で寺が焼失したため、小右衛門の邸地に草堂を建てた。篠の道場と称したが、寛文9年(1669)粽山篠生寺と号した。
【3】寛政7年(1795)浄土真宗の順拝帳(2)
※参考
・日本歴史地名大系(平凡社)
・各寺社公式サイト
・『福井市史』(国会図書館デジタルコレクション)
・『石川県江沼郡誌』(国会図書館デジタルコレクション)
・『二十四輩順拝図絵』(国会図書館デジタルコレクション)
・『二十四輩順礼・親鸞聖蹟』(国会図書館デジタルコレクション)
・『本派本願寺寺院名簿』(国会図書館デジタルコレクション)
・『大谷派寺院録』(国会図書館デジタルコレクション)
・Wikipedia