妻恋神社は、江戸時代には関東惣司・妻恋稲荷と称し、広く信仰を集めた。社伝によれば、日本武尊が走水の海(浦賀水道)で暴風雨に遭ったとき、妃の弟橘媛命が自ら海中に入り、海神の怒りを鎮めた。日本武尊が湯島に滞在した折、妃を慕う尊の心情を哀れんだ里人が、尊と妃をお祀りして妻恋明神と称し、その後、倉稲魂命を合祀したという。
正式名称 | 妻恋神社〔つまこいじんじゃ〕 |
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御祭神 | 倉稲魂命 日本武尊 弟橘媛命 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都文京区湯島3-2-6 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.tsumakoi.jp/ |
御朱印
(1)平成19年拝受の御朱印。中央の朱印は「妻戀神社之印」。右上に扇に御の字の神紋と「妻戀神社」。
(2)平成26年拝受の御朱印。構成は平成19年のものと同じだが、印が新しくなっている。
昔の御朱印
(3)昭和11年の御朱印。朱印は「妻戀神社」。
御由緒
妻恋神社は、日本武尊とその妃・弟橘姫命、倉稲魂命を祀る。
社伝によれば、東夷平定に赴いた日本武尊は、走水の海(浦賀水道)を渡るときに海神を侮って起こらせたため、暴風雨に見舞われた。妃の弟橘媛命は自ら海中に入り、海神の怒りを静めた。
東征からの帰途、日本武尊は湯島の地に行宮を営み滞在された。尊の妃を慕う心を憐れんだ土地の人々が、尊と弟橘媛命を祀ったのが当社の始まりとされる。妻を恋い慕うという意味から妻恋明神と称され、後に稲荷明神(倉稲魂命)を合わせ祀り、妻恋稲荷と称するようになった。
嵯峨天皇の勅により、正一位を賜り、関東惣司妻恋大明神と称したという。往古は妻恋台の下に鎮座し、広大な社地を誇ったと伝えられる。
『文政寺社書上』によれば、永享年間(1429~41)鎌倉公方の若君に虫封じの御守護を献上したことから、神主の嫡子が若君の側仕えになったが、鎌倉公方が断絶したことからともに零落した。宝徳年間(1449~52)鎌倉公方が復活したことにより、再び祈願所となったが、下総国古河に移って古河公方となると豊島郡は敵地となり、たびたび戦乱に巻き込まれて衰微してしまったという。
天正年間(1573~92)徳川家康が2町四方の社地を寄進。江戸時代には関東惣司として王子稲荷と並ぶ信仰を集めた。万治年間(1658~61)火災で類焼したため、現社地に遷座した。
(国会図書館デジタルライブラリー)
明治5年(1872)村社に列格。
大正12年(1923)関東大震災で社殿が焼失。昭和16年(1941)再建されたが、昭和20年(1945)の空襲で再び焼失した。戦後は一時同朋町に遷座したが、昭和29年(1954)再興された。
正月2日に枕の下に敷いて寝るとよい初夢(一富士二鷹三茄子のいずれか)が見られるという縁起物の「夢枕」はよく知られている。「福寿鶴亀」と「七福神の乗合宝船」の版画で、万治年間(1658~61)の創案という。
昭和20年(1945)空襲で社殿が全焼したとき、この版木も焼失したものと思われていたが、昭和52年(1977)摺師の家で発見され、「夢枕」も復活した。
写真帖
メモ
現在は外神田の同朋町会と湯島の妻恋町会によって護持管理されている(同朋町は神田明神、妻恋町は湯島天満宮の氏子でもある)。普段は無人。
正月には町会の人々が御札や夢枕の配布、御神酒等の接待をしてくれる。御朱印も、この時いただくことができる。それほど多いというわけではないが、初詣客も途切れることはないようだった。(※以上、平成19年)
平成26年の元旦に参拝し、二度目の御朱印をいただいたが、社殿の屋根が瓦葺きから銅板葺きに変わっていた。平成23年の東日本大震災で屋根が崩壊し、その後の修復によるものらしい。(※以上、平成28年追記)
妻恋神社の概要
名称 | 妻恋神社 |
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旧称 | 妻戀稲荷社 |
御祭神 | 倉稲魂命〔うかのみたまのみこと〕 日本武尊〔やまとたけるのみこと〕 弟橘媛命〔おとたちばなひめのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都文京区湯島三丁目2番6号 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 3月第2日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭 6月30日/夏越の祓 12月31日/年越しの大祓 |
交通アクセス
□東京メトロ銀座線「末広町駅」より徒歩約5分
□東京メトロ千代田線「湯島駅」より徒歩約6分
□JR中央線・東京メトロ丸ノ内線「御茶ノ水駅」より徒歩約6分