明徳稲荷神社 | 東京都中央区

明徳稲荷神社

明徳稲荷神社は日枝神社日本橋摂社境内に隣接し、一見すると境内社のように見えるが独立した神社である。元禄年間(1688~1704)南茅場町の与力同心組屋敷拝領地内(現在の茅場町一丁目交差点付近)に勧請されたと伝えられる。昭和38年(1963)現社地に遷座した。

正式名称明徳稲荷神社〔めいとくいなりじんじゃ〕
御祭神宇気母智神 〈合祀〉翁稲荷 祇園稲荷
社格等旧無格社
鎮座地東京都中央区日本橋茅場町1-6-16 [Mapion|googlemap]
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目次

御朱印

明徳稲荷神社の御朱印

(1)

(1)令和2年(2020)拝受の御朱印。朱印・揮毫とも「明徳稲荷神社」。

※2月の初午祭にのみ、日枝神社日本橋摂社で拝受できる。ただし年によっては二の午・三の午に授与されることもあるので、サイトなどで確認しておいたほうがよいだろう。

御由緒

社殿

明徳稲荷神社は、一見すると日枝神社日本橋摂社の境内社のように見えるが、独立した宗教法人格を持つ神社である。現在地に遷座したのは昭和38年(1963)で、元は南茅場町の稲荷と呼ばれ、現在の茅場町一丁目交差点のあたりに鎮座していた。

元禄年間(1688~1704)、南茅場町の与力同心組屋敷拝領地内(茅場町一丁目交差点付近)に勧請されたと伝えられる。「組屋敷惣鎮守の稲荷」とも呼ばれていたようだ(※中央区立京橋図書館『郷土室だより』第66号参照)。

八町堀細見図絵
『八町堀細見図絵』部分(国会図書館デジタルコレクション)

文久2年(1862)の『八町堀細見図会』に明徳稲荷が見える。

上記『郷土室だより』によれば、明徳稲荷は俗に代官屋敷と呼ばれる通りにあったという。同図を見ると、山王御旅所(日枝神社日本橋摂社)の南の通りに「代官屋敷」の文字が見える。この通りに面して明徳稲荷の参道があり、山王御旅所から続く千川上水跡を背にして社殿が建っていたようだ。

築地八町堀日本橋南絵図
『築地八町堀日本橋南絵図』部分(国会図書館デジタルコレクション)

嘉永2年(1849)の『築地八町堀日本橋南絵図』には記されてないが、『八町堀細見図絵』から判断すると、★のあたりにあったと思われる。現在の茅場町三丁目交差点のやや東ではないかと思われる

明治6年(1873)日枝神社の兼務社となる。明治12年(1879)の神社明細帳によると、約20坪の境内に間口2間・奥行2間の本殿と同じく間口2間・奥行2間の拝殿が建っていたようだ。

明治18年(1885)火災で焼失するが、社殿・神楽殿などが再建され、日枝神社日本橋摂社・薬師堂(智泉院)などとともに縁日には江戸情緒豊かな賑わいを見せていたという。

大正12年(1923)関東大震災により社殿が焼失。その後小さな社殿を再建するが、間もなく区画整理のため南茅場町14番地(現在の東京証券会館のあたり)に遷された。さらに昭和20年(1945)3月、米軍の空襲により再び焼失。昭和24年(1949)社殿が再建された。

昭和38年(1963)東京証券会館の建設に伴い、日枝神社日本橋摂社に隣接する現社地に遷座した。

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楓川天神

八町堀細見図絵
『八町堀細見図絵』明徳稲荷附近(国会図書館デジタルコレクション)

『八町堀細見図絵』の明徳稲荷附近を拡大してみると、明徳稲荷は「楓川天神・明徳稲荷」となっている。

楓川〔もみじがわ〕天神については、弘化2年(1845)の『楓川鎧之渡古跡考』に「本材木町四丁目(※日本橋三丁目)川端に楓川天神の社と称す祠ありしを今千川上水跡裏茅場町の後ろなる明徳稲荷の社に合殿にて移し祀る。神主菅北筑前是を奉祀す」とある。

しかし現在、明徳稲荷に天神(菅原道真公)は祀られていない。明治12年(1879)の神社明細帳も御祭神は宇気母智神一柱となっている。

『菅原大神千年大祭図会』(明治35年、風俗画報臨時増刊第250号)は日枝神社日本橋摂社境内の北野神社(現在は本殿に合祀)を楓川天神としている。しかし『楓川鎧之渡古跡考』は山王御旅所(日枝神社日本橋摂社)境内の天満宮を「甲山天神」としている。

明治になって楓川天神のみ日本橋摂社境内の北野神社に合祀したとも考えられるが、今のところ詳細はわからない。

翁稲荷・祇園稲荷

合祀されている翁稲荷は、元は江戸橋広小路に祀られており、流行神として広く信仰を集めた。明治の頃は桂馬稲荷と二社合殿で日枝神社日本橋摂社境内に祀られていたが、一時、料亭・喜可久の庭に預けられたという。その後、明徳稲荷神社に合祀された。

祇園稲荷は、関東大震災前に町内で祀られていたという。

「明徳稲荷神社由来」碑

由来碑

境内に明徳稲荷神社の由来碑があり、遷座に至る経緯が詳しく記されている。

宗教法人 明徳稲荷神社由来

当神社は遠く元禄の頃より南茅場町「現茅場町一丁目」の稲荷社として現六番地附近に鎮座し、明治十八年回禄の災後は社殿神楽殿再築せられ、町内睦組方々により日枝摂社、薬師堂と共に江戸の御縁日の情緒豊かに霊顕崇たかなり、大正十二年関東大震災後小宇再建間もなく区画整理にて十四番地「十四坪六合」の換地に社宇再建せられたるも昭和二十年三月戦火に依り烏有に帰せしによって、当時の責任役員、岡本保之助、遠藤金之助、深澤常蔵、近藤喜代二、遠藤正善の五氏に依り審議の結果再建する事となり昭和二十四年社殿も復興し益々社運の御隆盛を見るに至れり、然るに偶々東京証券会館建設に当り神社御遷座の懇請を受けたるも、将来神社の繁栄並に町発展を考慮して数ヶ年に亘り、之を広く相諮り御遷座地の選定に慎重を期したるところ、責任役員代表町会長大部芳之助氏が知人小沢猛氏の熟知大阪精糖株式会社所有地「二十九坪五合三勺」が日枝神社摂社の神域に連らなり代替地として最適地と大部氏之れを認め、責任役員 総代並に町会役員全員の賛成を得て、早速東京証券取引所に交渉開始再三協議の結果、昭和三十八年六月再建を完了し荘厳なる遷座式典等滞りなく挙行せられ今日の厳粛なる神苑の完成を見るに至れり
尚翁稲荷神社は摂社境内に鎮座しあり一時喜可久氏庭内に預りしも後明徳社に合祀鎮座申し上ぐ
祇園稲荷神社は震災前に町内に鎮座せられたるに依り、責任役員、総代会に諮り翁稲荷共々合祀申し上げ現在に至る

写真帖

全景
境内全景
境内南側の鳥居
境内南側の鳥居
境内正面の鳥居
境内正面の鳥居
社号額
正面鳥居の扁額「明徳稲荷神社」
手水舎
手水舎
水盤
水盤
由来碑
由緒碑
社殿
社殿
社殿
社殿

メモ

ビルと日枝神社日本橋摂社に挟まれた境内に鎮座する。境内の周囲は玉垣で囲まれており、寄進者には東京証券取引所をはじめ証券会社が名を連ねている。入口は2ヶ所あるが、どちらも摂社の境内に面している。独立の神社とはいえ、日枝神社の兼務社であり、事実上の境内社のような形になっている。狭い境内ではあるが緑が多く、表通りの喧噪もあまり聞こえてこないため、都心にあるとは思えない雰囲気がある。

明徳稲荷神社の概要

名称 明徳稲荷神社
御祭神 宇気母智神〔うけもちのかみ〕
〈合祀〉
翁稲荷〔おきな いなり〕
祇園稲荷〔ぎおん いなり〕
鎮座地 東京都中央区日本橋茅場町一丁目6番16号
創建年代 元禄年間(1688~1704)
社格等 旧無格社
例祭 2月午の日(初午祭)

交通アクセス

□茅場町駅(日比谷線・東西線)より徒歩1分
□日本橋駅(銀座線・東西線・都営浅草線)より徒歩4分

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