新田神社 | 東京都大田区

新田神社

新田神社は、新田義貞の第二子で、奸計により多摩川の矢口渡で壮烈な最期を遂げた新田義興を祀る。江戸時代、徳川将軍家が新田氏の系譜に連なることから篤い崇敬を受けた。平賀源内が境内の旗竹を用いて「矢守」を考案したことから「破魔矢発祥の社」として知られる。

正式名称 新田神社〔にったじんじゃ〕
御祭神 新田義興公
社格等 旧府社
鎮座地 東京都大田区矢口1-21-23 [Mapion|googlemap]
公式サイト http://nittajinja.org/
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目次

御朱印

新田神社の御朱印

(1)

新田神社の御朱印

(2)

(1)平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「新田神社」。上は一つ引き両(新田氏の家紋)と五三桐の神紋、右上に「武蔵國矢口鎮座」。

(2)平成26年拝受の御朱印。中央の朱印は「新田神社」だが、平成17年のものとは変わっている。右上に神紋、右に「武蔵國矢口鎮座」。

(1)平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「新田神社」。上は一つ引き両(新田氏の家紋)と五三桐の神紋、右上に「武蔵國矢口鎮座」。

(2)平成26年拝受の御朱印。中央の朱印は「新田神社」だが、平成17年のものとは変わっている。右上に神紋、右に「武蔵國矢口鎮座」。

昔の御朱印

昭和12年の御朱印

(3)

(3)昭和12年の御朱印。上の朱印は「新田神社」、左右に「忠貞■身」「■撃■賊」。下は「新田神社社務所之印」。

御由緒

新田神社は、南朝方の武将として活躍した新田義貞の第二子・新田義興を祀る。

義興は父・義貞の意志を継ぎ、一族を率いて各地で奮戦した。延元2年(1337)奥州の北畠顕家が軍を率いて南下すると、これに合流して鎌倉を落とした。翌3年(1338)には美濃国青野原で足利方の軍勢を撃破している。正平7年(1352)には弟の義宗、従兄弟の脇屋義治とともに宗良親王を奉じて挙兵、一時は鎌倉を占拠した。

その後、越後で兵を養っていたが、正平13年(1358)鎌倉奪還のために兵を挙げ、関東に入った。これを恐れた鎌倉公方・足利基氏と関東管領・畠山国清は夜討ち・奇襲を企てるもすべて失敗に終わった。そこで、国清は竹沢右京亮と江戸遠江守に義興を討つよう命じた。

竹沢は義興に少将局という美女を献じ、巧みに取り入った。そして、江戸遠江守とともに鎌倉奪還の好機であると誘い出すことに成功し、義興は12名の従者とともに配下の潜む鎌倉へと向かった。

ところが多摩川を渡るために矢口の渡しで小舟に乗ったところ、川の中ほどで竹沢の息のかかった船頭が櫓を川に落とした。そして、拾うと見せかけて川に飛び込み、船底に仕掛けた栓を抜いた。

舟が沈みかけると、川の両側に潜んでいた竹沢・江戸の伏兵が矢を射かけた。騙されたことを知った義興は自刃して果て、従者たちは互いに差し違えたり、川を泳ぎ渡って敵陣に切り込んだりして、壮絶な最期を遂げた。

その後、江戸遠江守をはじめ、悪計に加担した者が次々に変死、さらに矢口付近に「光り物」が現れて往来の人々を悩ませるようになった。そのため、義興の墳墓の前に社殿が建てられ、「新田大明神」として崇められるようになった。

江戸幕府が開かれると、徳川将軍家が新田家の系譜に連なるということから篤く崇敬された。松平政種が「新田大明神縁起絵巻」を奉納、松平頼寛が「新田神君碑」を建立している。

平賀源内は境内の「旗竹」を用いて除災招福・邪気退散の「矢守」を考案した。旗竹は源氏の白旗が根付き、決して神域を越えることがないと伝えられる篠竹である。さらに、新田大明神の縁起を脚色し、福内鬼外のペンネームで浄瑠璃歌舞伎『神霊矢口渡』を書いたところ、爆発的な大当たりとなり、江戸庶民の間で「新田詣」が流行したという。因みに、この「矢守」が破魔矢の元祖であるという。

明治6年(1873)府社に列格。同42年(1909)、義興に従三位が追贈された。

ゆかりの寺社

新田神社から南に5分ほど歩いた十寄神社は、矢口の渡しで義興に殉じた従者を祀る。願い事があるものは、十寄神社に参ってから新田神社に参拝すると、願い事が叶うという。

西蒲田6丁目の女塚神社には、竹沢が義興のもとに送った少将局を祀る女塚がある。少将局は義興に思いを寄せ、竹沢が自宅に義興を招いて殺害しようとしたとき、凶兆があるとして行くのを止めた。怒った竹沢は部下に命じて少将局を殺害、これを憐れんだ村人が塚を築き、女塚霊神として祀ったという。

下丸子1丁目の妙蓮塚三体地蔵尊は、義興の従者のうち、対岸に泳ぎ渡り、数百の敵中に切り込んで討ち死にした土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎の3人を祀るために建立されたと伝えられる。

下丸子2丁目の頓兵衛地蔵尊は、義興殺害に荷担した船頭の頓兵衛が前非を悔い、義興の御霊を供養するために建立したものという。

鵜の木1丁目の光明寺には、竹沢右京亮や江戸遠江守ら江戸氏一族の墳墓である荒塚があった(現存せず)。また、義興の怨念が雷火となって人々を悩ませていたとき、浄心という僧が当時の十一面観音に祈願すると、雷火が治まった。以後、鵜の木村には落雷による葛西が亡くなったということから、雷留観音と呼ばれるようになったと伝えられる。

写真帖

鳥居
鳥居
御神木の欅
御神木の欅
稲荷神社
末社 稲荷神社
唸る狛犬
唸る狛犬
建石華表碑
建石華表碑
拝殿
拝殿
本殿
本殿
矢口新田神君之碑
矢口新田神君之碑
御塚
御塚

メモ

社殿の背後にある円墳は「御塚」と呼ばれ、新田義興の墓とされる。「荒山」「迷い塚」などとも呼ばれ、ここに入ると必ず祟りがあるといわれているそうだ。江戸時代、盗賊がここに逃げ込んだが、意識不明になり、村人に捕まったことがあるとのこと。現在は金網で囲まれ、立ち入ることができなくなっている。
境内の南側に並んだ石造物にも興味深いものがある。ヤツデの葉の陰に隠れているような狛犬は「唸る狛犬」という。義興を陥れた畠山一族やその血縁者・末裔が神社の近くに来ると必ず雨が降り、この狛犬が唸ったと伝えられる。残念ながら、一体は戦災で壊れてしまったとのことである。
「建石華表碑」は、かつて武蔵新田駅前通りにあった一の鳥居建立の経緯を記したものである(華表は鳥居のこと)。江戸麻布の篤志家・亀屋重五郎は義侠心が強く、人々の信望厚い高潔の仁徳者であった。新田大明神に祈願して神恩を蒙ることしばしばであったので、石造の大鳥居の建立を発願したが、志半ばで他界してしまった。その後、重五郎を敬愛する人や新田大明神の崇敬者が協力して浄財を集め、天保3年(1832)完成に至ったという。しかし、昭和45年(1970)下水道工事の際に誤って笠木を破損し、倒壊の危険が生じたため、やむなく解体された。現在、鳥居の石材が碑のとなりに保存されている。

新田神社の概要

名称 新田神社
旧称 新田大明神
御祭神 新田義興公〔にったよしおき こう〕
鎮座地 東京都大田区矢口一丁目21番23号
創建年代 室町神社
社格等 旧府社
例祭 10月10日
神事・行事 1月1日/歳旦祭
2月11日/紀元祭
2月17日/祈年祭
4月10日/春季大祭・靖國碑招魂祭
6月30日/大祓
11月23日/新嘗祭
12月31日/大祓・除夜祭
文化財 〈都有形文化財〉新田大明神縁起絵巻
巡拝 多摩川七福神(恵比須)

交通アクセス

□東急多摩川線「武蔵新田駅」より徒歩約3分

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