恋ヶ窪の熊野神社は、創建年代は不詳だが、新田義貞と鎌倉勢の戦火で焼失したという伝承を持つ古社である。文明18年(1486)聖護院の道興准后が御歌を奉額したというが、天正の兵火で焼失したという。江戸時代には熊野権現社と称し、武野山東福寺が別当だった。
正式名称 | 熊野神社〔くまのじんじゃ〕 |
---|---|
御祭神 | 伊邪那岐大神 伊邪那美大神 家津御子大神 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都国分寺市西恋ヶ窪1-27-17 [Mapion|googlemap] |
最寄り駅 | 西国分寺(JR中央線・武蔵野線) |
公式サイト | http://kokubunjikumano.blog.fc2.com/ |
御由緒
恋ヶ窪の熊野神社は、紀伊国の熊野権現を勧請・奉斎したもので、創建年代は不詳だが、元弘・建武の頃(1333頃)新田義貞と鎌倉勢の戦火で焼失したという伝承がある。
応永年間(1394~1427)社殿を再建。文明18年(1486)聖護院門跡の道興准后が御東行した折、「朽ちはてぬ 名のみ残れる恋ヶ窪 今はた訪ふも知記りならずや」の御歌を奉額されたという。
天正18年(1590)再び兵火により社殿・道興准后の奉額が焼失。慶長2年(1597)社殿が再建された。寛文10年(1670)社殿を改築、宝暦13年(1763)本殿を造営した。
『新編武蔵風土記稿』には、「熊野権現社 社地一反三畝一歩 村の中央にあり。覆屋三間四方。前に石階十五級あり」とある。別当は真言宗の武野山東福寺であった。
明治6年(1873)村社に列格。翌7年(1874)有栖川宮幟仁親王の御真筆・御印象を賜り、道興准后の歌碑を建立した。
明治10年(1877)暴風のために社殿が倒壊。その後、復興に着手し、本殿・拝殿の順に再建、明治16年(1883)竣工した。
大正12年(1923)関東大震災により社殿が大破。のみならず、社殿の傷みも進んでいたため、昭和3年(1928)大修理を行った。
昭和20年(1945)米軍機の爆撃により社殿が大破したが、昭和23年(1948)復旧が完了した。
現在の社殿は昭和41年(1966)に造営されたものである。
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「熊野神社之印」。左下に八咫烏の神紋。
(2)平成28年拝受の御朱印。中央の朱印は「熊野神社」。左上に八咫烏の神紋。
写真帖
見どころ
■聖護院道興准后の歌碑
文明18年(1486)道興准后が奉額した御歌の歌碑。明治7年(1874)に建てられたもので、揮毫は有栖川宮幟仁親王の御真筆。
■芭蕉の句碑
「ひょろひょろと なお露けしや をみなへし」
恋ヶ窪出身の俳人・宝雪庵可尊が明治7年(1874)に建てたもので、書は可尊の筆。
■可尊の句碑
「月花の 遊びにゆかむ いざさらば」
宝雪庵可尊(坂本八郎兵衛)の辞世の句。明治30年(1897)門人たちが建てたもの。
メモ
西国分寺駅の北西500mほどの所に鎮座する。参道・社殿は西向きで、社前の道は旧鎌倉街道という。広くはないが、風格のある木造社殿の背後に緑の木々が繁り、趣のある境内となっている。
初めての参拝時は年末で、氏子の方たちが新年を迎える準備をしていた。慌ただしい中、宮司さんが快く御朱印の対応をしてくださった。ただ、写真は撮りづらかったため、後日参拝して写真を撮り直し。ただ、今度は烏の子育ての時期で、芭蕉と可尊の句碑を撮影しようとすると、親烏の襲撃を受けた。なかなかうまくいかないものである。
熊野神社の概要
名称 | 熊野神社 |
---|---|
通称 | 恋ヶ窪熊野神社 |
旧称 | 熊野権現社 |
御祭神 | 伊邪那岐大神〔いざなぎのおおかみ〕 伊邪那美大神〔いざなみのおおかみ〕 家津御子大神〔けつみこのおおかみ〕 |
鎮座地 | 東京都国分寺市西恋ヶ窪一丁目27番17号 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 9月9日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月中旬/どんど焼き 2月節分/節分祭 2月17日/祈年祭 5月27日/古峯神社例祭 6月30日/夏越大祓 9月8日/八雲神社例祭 11月23日/新嘗祭 11月24日/八幡神社例祭 12月28日/師走大祓 |
交通アクセス
□JR中央線・武蔵野線「西国分寺駅」より徒歩約7分