本居宣長ノ宮

本居宣長ノ宮拝殿

本居宣長ノ宮は、江戸時代の国学者・本居宣長を祀る。明治8年(1875)山室村(松阪市山室町)の本居宣長の奥津城(墓)のかたわらに社殿を建立し、山室山神社と称したことに始まる。明治22年(1889)現在の松阪市役所の地に遷座。大正4年(1915)四五百森の現社地に遷され、昭和6年(1931)本居神社と改称した。さらに平成7年(1995)本居宣長ノ宮と改めた。学業成就・合格祈願の御神徳で信仰を集めている。
三重県の神社

正式名称 本居宣長ノ宮〔もとおりのりながのみや〕
御祭神 秋津彦美豆櫻根大人(本居宣長) 〈相殿〉神霊能真柱大人(平田篤胤)
社格等 旧県社
鎮座地 三重県松阪市殿町1533-2 [Mapion|googlemap]
公式サイト http://motoorinorinaga.org/
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御朱印

  • 本居宣長ノ宮の御朱印

    (1)

  • 本居宣長ノ宮の御朱印

    (2)

(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は「本居宣長ノ宮」。上の印は桜の花に「祭祀 宣長大人」、下は駅鈴に「伊勢 松阪 鈴屋社」。

(2)平成28年拝受の御朱印。朱印は平成18年のものと同じ。揮毫(スタンプ)は宣長の和歌「志きしまのやまと心を人とはば 朝日に匂ふ山さくら花」。

昔の御朱印

  • 本居宣長ノ宮の御朱印

    (1)

(1)昭和16年(1941)頃の御朱印。上の朱印は「本居神社之印」、下は駅鈴に「伊勢 松阪 鈴屋社」。

御由緒

戦前の絵はがき

戦前の絵はがき(社号標は「縣社山室山神社」)

御祭神

■主祭神:秋津彦美豆櫻根大人(本居宣長)
■相殿:神霊能真柱大人(平田篤胤)

松阪出身の国学者・本居宣長を主祭神とし、平田篤胤を配祀する。

本居宣長は荷田春満・賀茂真淵・平田篤胤とともに国学四大人と称される。「秋津彦美豆櫻根大人〔あきづひこみずさくらねのうし〕」は生前、自ら定めた諡号である。

享保15年(1730)伊勢国松坂(三重県松阪市)の木綿問屋・小津定利の二男として誕生した。

先祖は池大納言〔いけのだいなごん〕平頼盛の後裔とされ、代々伊勢国司・北畠氏の家臣であった。本居家初代の本居武秀は蒲生氏郷に仕えた武将である。武秀の子・七右衛門の代から小津姓に改め、松阪に住んで木綿問屋を営むようになった。定利の頃には江戸店を持つ豪商として栄えていたという。

19歳で伊勢国山田(三重県伊勢市)の紙商・今井田家に養子として入るが、21歳の時、離縁となって実家へ戻った。

翌年、義兄が没したため宣長が家を継ぐことになった。しかし、生来学者肌で商人に向いておらず、家業も傾いていたことから、母と相談の上、医師として身を立てることとし、23歳の時、医師となるために京都へ遊学した。

京都では、堀景山から漢学を、堀元厚・武川幸順から医学を学んだ。堀景山は学統としては朱子学派であったが、荻生徂徠の学にも関心を持ち、また国学に関心が深く、契沖の支援者でもあった。宣長も景山を通じて徂徠や契沖の学に接し、それが国学へ向かう契機になったと考えられている。また、この遊学中、小津姓から先祖の古い姓である本居に改めている。

宝暦7年(1758)松坂に帰り、医師を開業する。同時にこの頃から本格的に国学に取り組むようになり、翌宝暦8年(1759)から門人に『源氏物語』の講義を行うようになった。

宝暦13年(1763)松坂に立ち寄った賀茂真淵と生涯で一度の対面を果たす。翌明和元年(1764)江戸の真淵に誓紙を送り、正式に門人となった。以来、書簡を通じて教えを受けるようになる。

この頃から畢生の著作である『古事記伝』の執筆に取りかかり、ほぼ35年かけて寛政10年(1798)69歳の時に完成した。この他にも多くの著述を完成させ、国学者として名声が高まった。伊勢国のみならず諸国から入門者が相次ぎ、その数は500名を超えたという。

享和元年(1801)9月29日、72歳で病没。遺骨は遺言書に従い松坂郊外の山室山に埋葬された。

明治13年(1880)勅使が参向して金幣を下賜。明治16年(1883)正四位を追贈され、さらに明治38年(1905)従三位に進められた。

その業績は我が国の古道の解明から語学・文学・史学等各方面に及び、後世にも大きな影響を与えている。

御由緒

戦前の絵ハガキ(社殿)

戦前の絵はがき(社殿)

本居宣長を神として祀りたいという声は早くからあったが、明治の初め、宣長の曾孫・信郷や川口常文らにより実現した。

明治8年(1875)山室山にある宣長の奥墓〔おくつき〕の傍らに社殿を建立し、山室山神社と号した。しかし、急峻な山道を登らなければならず、参拝に不便であることから、明治22年(1889)現在の松阪市役所の地に遷座した。明治36年(1903)県社に昇格。

戦前の絵ハガキ

戦前の絵ハガキ(社号標は「縣社本居神社」)

大正4年(1915)松阪発祥の聖地・四五百〔よいほ〕の森の現社地に遷座。昭和6年(1931)本居神社と改称した。

さらに平成7年(1995)社号を現在の本居宣長ノ宮に改めた。

正一位 末広稲荷大神

本居宣長ノ宮末広稲荷大神

御祭神は宇迦之御魂大神。昭和4年(1929)松阪木綿株式会社(後の興和紡績株式会社松阪工場)が工場の守護神として京都の伏見稲荷大社より御分霊を勧請したことに始まる。

平成10年(1998)同工場の閉鎖に伴い、本居宣長ノ宮境内に仮遷座。翌平成11年(1999)社殿が完成、鎮座した。

四五百森

四五百森〔よいほのもり〕は宵の森、千五百森〔ちいほのもり〕とも呼ばれる標高38mの丘陵で、松阪発祥の地とされる。

天正16年(1588)築城の名手であった蒲生氏郷は四五百森に目をつけ、城を築いて本拠地を松ヶ島から移し、松坂城と名付けた。さらに松ヶ島の住民を移住させるとともに、故郷・近江国日野(滋賀県日野町)や度会郡大湊(伊勢市)の商人を呼び寄せ、城下町を整備した。これが松坂(松阪)の町の起こりである。

後に伊勢国南部は紀州領となり、松坂城には紀州藩の城代がおかれた。松阪は商業都市として繁栄するようになり、松阪の商人は大阪商人・近江商人と並ぶ伊勢商人として繁栄を極めた。

四五百森の名の由来について本居宣長は、延喜式神名帳所載の意悲〔おひ〕神社の「おひ」が「よひ」となって「宵の森」と呼ばれるようになり、それが「四五百森」に転訛したのだろうと考証している。

因みに意悲神社は当地に鎮座していた御城八幡に比定され、明治初年に意悲神社と改称されたが、明治41年(1908)松阪の各所に祀られていた17の神社を合祀し、社号を松坂神社と改めた。本居宣長ノ宮に隣接する現在の松阪神社である。

国学四大人

国学四大人には、それぞれを御祭神とする旧県社格の神社がある。すなわち当社の他、荷田春満を祀る京都市伏見区の東丸神社、賀茂真淵を祀る浜松市中区の縣居神社、平田篤胤を祀る秋田市の彌高神社である。

写真帖

  • 本居宣長ノ宮一の鳥居

    一の鳥居

  • 本居宣長ノ宮手水舎

    手水舎

  • 本居宣長ノ宮二の鳥居

    二の鳥居

  • 本居宣長ノ宮石の駅鈴

    石の駅鈴

  • 本居宣長ノ宮歌碑

    歌碑

  • 本居宣長ノ宮末広稲荷大神

    正一位 末広稲荷大神

  • 本居宣長ノ宮拝殿

    拝殿

  • 本居宣長ノ宮拝殿

    拝殿

  • 本居宣長ノ宮社号額

    拝殿の社号額

  • 本殿

    本殿

メモ

松阪の町の中心部、松坂城跡からほど近い森の中に鎮座する。隣接して松阪の町の鎮守である松阪神社が鎮座している。緑深い境内には宣長遺愛の鈴を模した石の駅鈴や歌碑がある。歌碑は宣長の「しきしまの…」の和歌を刻んだもので昭和34年の建立、揮毫は宣長6世の子孫に当たる本居弥生氏。

本居宣長ノ宮の概要

名称 本居宣長ノ宮
旧称 本居神社 山室山神社
御祭神 秋津彦美豆櫻根大人〔あきづひこみずさくらねのうし〕(本居宣長)
〈相殿〉
神霊能真柱大人〔かむたまのまはしらうし〕(平田篤胤)
鎮座地 三重県松阪市殿町1533番地2
創建年代 明治8年(1875)
社格等 旧県社
例祭 4月第1日曜日(宣長まつり)
神事・行事 1月1日/歳旦祭
2月17日/祈年祭
3月上旬/入学祈願祭(進学まつり)
7月7日/学芸向上祭(七夕まつり)
11月8日/秋季大祭(四五百の森 遷座記念祭)
11月27日/新嘗祭

交通アクセス

□JR紀勢本線・近鉄山田線「松阪駅」より徒歩20分、またはバス
■三重交通松阪中央病院行き「市役所前」下車徒歩5分

三重県の神社
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