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離宮八幡宮 | 京都府乙訓郡大山崎町

離宮八幡宮中門

離宮八幡宮は、貞観元年(859)行教上人が宇佐から八幡大神を奉じて上京した際、男山鎮斎の前にしばらく山崎に奉斎したことを起源とする、石清水八幡宮の元宮である。この地が嵯峨天皇の営んだ河陽離宮の跡であることから離宮八幡宮と称する。当社の神官が「長木」という搾油器を発明して荏胡麻油の製造が始まり、大山崎神人が諸国の油座を統括するようになったことから「油祖」油の神様として名高い。

正式名称 離宮八幡宮〔りきゅうはちまんぐう〕
御祭神 応神天皇 〈相殿〉酒解大神 比売三神
社格等 旧府社
鎮座地 京都府乙訓郡大山崎町大山崎西谷21-1 [Mapion|googlemap]
公式サイト http://rikyuhachiman.org/
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御朱印

離宮八幡宮の御朱印 離宮八幡宮の御朱印 none
(1) (2)

(1)平成18年拝受の御朱印。上の朱印は三本杉の神紋、下は「離宮八幡宮」。

(2)平成29年拝受の御朱印。朱印は平成18年のものと同じ。

昔の御朱印

離宮八幡宮の御朱印 none none
(1)

(1)年代不詳、大正末から昭和初期のものと思われる御朱印。上の朱印は火焔宝珠、下は「離宮八幡宮」。

御由緒

離宮八幡宮『都名所図会』

山崎『都名所図会』(国会図書館デジタルコレクション)

御祭神

■本殿:応神天皇
■左殿:酒解大神(大山祇神)
■右殿:比売三神(市杵島姫命・湍津姫命・田心姫命)

本殿の応神天皇と右殿の比売三神は八幡大神。行教上人が宇佐八幡宮より勧請し、神託により男山に遷座した(石清水八幡宮)。

酒解大神〔さかとけのおおかみ〕は、山崎の氏神である自玉手祭来酒解神社〔たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ〕の御祭神。酒解神は橘氏の氏神である梅宮大社にも祀られており、大山祇神とされる。

御由緒(歴史)

離宮八幡宮絵はがき

戦前の絵はがき

離宮八幡宮は、「天下分目の天王山」として知られる天王山の南麓・山崎(大山崎)の地に鎮座する。「離宮」の名は嵯峨天皇が営んだ「河陽離宮〔かやりきゅう〕」の故地にあることに因む。行教上人が石清水八幡宮を勧請した際、男山に鎮斎する前にしばらく当地に奉斎したことを起源とする。

鎮座地の山崎は、山城と摂津の国境に位置する。山崎に住む神人〔じにん〕が「大山崎神人」と通称されたことから、大山崎とも呼ばれるようになった。天王山と男山にはさまれ、桂川・宇治川・木津川の流れが合流して淀川となる地点である。長岡京・平安京の外港とされ、古代より水陸交通の要衝として栄えた。すでに平安時代の初期には流通の拠点として繁栄し、斉衡2年(855)の火災では300余家が焼失したという。

貞観元年(859)清和天皇が、国家鎮護のため八幡神を宇佐より京に遷座せよとの夢告を受け、奈良・大安寺の行教上人に勅して宇佐へ遣わせた。

行教上人が八幡神を奉じて帰京して山崎津の離宮跡に寄宿した時、夜の山に霊光を見た。不思議に思った上人がそこを掘ると、岩の間から清水が湧き出した。そこでこの地に社を建立し、八幡神を奉斎して石清水八幡宮と称した。その後、再び神託を受けて石清水八幡宮は淀川対岸の男山に遷座(離宮八幡宮では「男山への分祀」とする)、山崎の社は離宮八幡宮と称するようになった。

これに因み、毎年4月3日に勅使が遣わされ、まず離宮八幡宮に参拝した後、淀川を船で渡って男山の石清水八幡宮に参拝したのが日使頭祭の始まりとされる。

また平安時代には大山崎の神人たちによって荏胡麻油の製造が始まり、石清水八幡宮内殿の灯油として調進していた。大山崎神人は朝廷から油司の免許を受け、やがて離宮八幡宮を中心に諸国の油座を支配下に置くようになった。

大山崎神人は津料・関料免除などさまざまな特権を受け、京都や諸国に進出して商業活動に従事した。また、水無瀬川(大阪府島本町山崎・東大寺)から円明寺(大山崎町円明寺)までは神領とされ、課役が免除された。特に足利義満は大山崎の油座を庇護し、後の足利将軍もそれを継承したことから最盛期を迎える。最盛期には50隻の船が渡御する大祭で、賀茂社の祭礼を「北祭」「葵祭」と呼ばれたのに対して「南祭」「藤祭」と称されたという。

応仁の乱の後、山崎は軍事上の要衝であることからたびたび戦火に巻き込まれた。そのため、神人の中には四散するものも多く、さらに織田信長の楽市楽座政策で打撃を受けたが、なお大きな勢力を有していた。山崎の合戦の後、一時山崎城を本拠とした豊臣秀吉は五ヶ条の掟書を下し、離宮八幡宮の油座・麹座・買得田の権利を保証した。

離宮八幡宮『都名所図会』

離宮八幡宮(山崎の一部)『都名所図会』(国会図書館デジタルコレクション)

江戸時代に入ると山崎の油座は急速に衰えるが、離宮八幡宮は幕府の庇護を受けて繁栄した。

慶長6年(1601)徳川家康が神領700石を寄進。寛永10年(1633)徳川家光は勝竜寺城主・永井直清に社殿の造営を命じ、同12年(1635)に完成した。寛文10年(1670)風水害で社頭が破壊されると、大坂御蔵銀から銀102貫余が支出され、本社・拝殿・平唐門・護摩堂・鐘楼などを備え、「西の日光」と称される壮麗な社殿が造営された。

神領は最終的に935石余となり、その内から村内の寺院などに配当が行われた。また、中世の神人は社家と称され、朱印高から配当を受けて神領の支配や神事奉仕に携わった。

元治元年(1864)禁門の変に際して長州藩の屯所となったため、幕府・薩摩連合軍の砲撃を受けて社殿・堂塔を焼失。兵火を免れて現存するのは惣門と東門のみである(ともに大山崎町指定文化財)。さらに明治9年(1876)の東海道本線の京都・神戸間開通、山崎駅の開設で社地の大半がその用地となり、境内は約3分の2に減少した。

明治6年(1873)村社に列格。明治12年(1879)崇敬者の寄進により社殿を再興。明治14年(1881)郷社に昇格した。昭和4年(1929)社殿を改築、昭和11年(1936)には府社に昇格した。

油の神様

離宮八幡宮油祖像

油祖像

離宮八幡宮は「油祖」と称され、油の神様として名高い。

社殿によれば、貞観年間(859~77)離宮八幡宮の神官(あるいは大山崎の長者ともいう)が神示によって「長木」という梃子を利用した搾油器を作り、荏胡麻油の製造を始めた。大山崎神人はこの油を石清水八幡宮内殿の灯油として調進していたが、平安時代の終わり頃からその身分を利用して特権を獲得し、商業活動を行うようになった。

承応元年(1222)美濃国司と六波羅探題は大山崎神人に美濃国不破関の関料免除を認めた。さらに応長元年(1311)には伏見上皇の院宣により淀・河尻・渡辺・兵庫以下の関料・津料の免除を認め、鎌倉幕府・室町幕府もその特権を保証した。大山崎神人は播磨・備前・阿波・伊予・肥後などの荏胡麻を優先的に購入、大和を除く畿内や近江・丹波・美濃・尾張など10ヶ国で独占的な販売権を有した。

特に足利義満は新儀交易の油商売を停止するなど大山崎神人を厚く保護したため、南北朝時代から室町時代前期に最盛期を迎えた。諸国の油商人も大山崎神人の支配下に入り、その印券を携えて諸国を往来したという。

因みに愛媛県松山市の朝日八幡神社は離宮八幡宮からの勧請という伝承を持ち、江戸時代以前は山崎八幡宮と称していた。周辺はかつて荏胡麻の大産地で大山崎神人との関わりが深く、地元の氏神であった沼戸明神に山崎の離宮八幡宮の御分霊を合祀したのだという。

しかし、応仁の乱では大山崎にも戦火が及んだことから製油に携わる神人が四散、乱の収束後に再開されたが、以前の繁栄には及ばなかった。戦国時代に入ると、戦国大名による自国商人保護政策や楽座政策により、大山崎の油座の特権的な地位は失われることとなった。さらに江戸時代に入ると、大阪付近で菜種・綿実を原料とする製油が始まり、荏胡麻を材料とする旧来の製法に頼る大山崎の油は急速に衰退した。

しかし、大山崎が製油の中心地としての地位を失った後も離宮八幡宮は油の神様として崇敬された。離宮八幡宮では後年まで正月に会合初めという行事が行われたが、これはかつての油買免許状の授受式であったという。

昭和61年(1986)には製油業界の有志により油祖離宮八幡宮崇敬会が設立された。翌年には日使頭祭が再興され、全国から百社以上の油脂業界の人々が参拝する。

石清水八幡宮との関係

石清水八幡宮

石清水八幡宮

離宮八幡宮は行教上人が山崎の地に八幡神を奉斎、その後男山に遷座したという由緒を持ち、創建当初より石清水八幡宮と深い関わりを持っていた。ところが元禄年間(1688~1704)離宮八幡宮が幕府の寄進を受けて壮麗な社殿が造営されたことをきっかけに本末争いが起こり、袂を分かつ結果となった。

元禄8年(1695)離宮八幡宮境内の標石に「石清水八幡宮領」とあること、鳥居の扁額が寛永頃までは「八幡離宮」、その後は「離宮八幡」となっていたのが「八幡宮」と改められて石清水八幡同然になったこと、新鋳した釣り鐘の銘に「石清水八幡宮」とあることなどを問題視し、京都奉行所に訴え出た。

石清水八幡宮の主張は「石清水」の称は男山の八幡に限ること、離宮八幡の「離宮」は河陽離宮ではなく男山の八幡の離宮・行宮の意であり、その支配下にあるというものであった。これに対して離宮八幡宮側は、山崎は石清水の起こりであり男山の元宮であると主張し、石清水八幡の支配下に置かれることに反対した。

元禄10年(1697)幕府の裁定が下され、石清水の三文字は使わず離宮八幡と書くべきとされたが、公式に離宮八幡として分離独立することが認められた。

自玉手祭来酒解神社との関係

自玉手祭来酒解神社本殿

自玉手祭来酒解神社

離宮八幡宮の左殿に祀られる酒解大神は、自玉手祭来酒解神社〔たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ〕の御祭神である。自玉手祭来酒解神社は、古くは山埼社とも呼ばれた山崎の氏神である。承和6年(839)従五位下、同10年(843)正五位下を奉授され、延喜の制では名神大社に列する。しかし中世以降、その所在は失われた。

その所在を巡っては『山城志』などが天王山山頂近くに鎮座する天王社(現在の自玉手祭来酒解神社)としたのに対し、『神祇志料』や『神社覈録』などは離宮八幡宮の左殿に祀るとする。鎮座記にも離宮八幡宮を創建したとき、相殿に酒解神を祀ったと記されているという。

『特選神名牒』は、天王社が広大な社地を有する山崎の産土神であること、天王社境内から流れ出る川が五位川と呼ばれるのは酒解神が従五位下を奉授されたことに因むとの伝承があることなどを根拠に、天王社こそ酒解神社であるとする。

明治元年(1868)天王社は正式に自玉手祭来酒解神社と改称、同8年(1875)京都府により式内社であることが決定されて現在に至る。

なお、自玉手祭来酒解神社は離宮八幡宮の兼務社となっており、御朱印も離宮八幡宮でいただくことができる。

写真帖

離宮八幡宮惣門

惣門

離宮八幡宮社号標

社号標

離宮八幡宮東門

東門

離宮八幡宮神領境標石

神領境標石

離宮八幡宮かしき石

かしき石(相応寺礎石)

離宮八幡宮鳥居

鳥居

離宮八幡宮手水所

手水所

離宮八幡宮油祖像

油祖像

離宮八幡宮河陽宮故址碑

河陽宮故址碑

離宮八幡宮本邦製油発祥地碑

本邦製油発祥地碑

離宮八幡宮中門

中門

離宮八幡宮宝塔礎石

宝塔礎石

離宮八幡宮腰掛天神社

菅原道真腰掛け石・腰掛天神社

離宮八幡宮小禅師宮

小禅師宮

離宮八幡宮高天宮神社

高天宮神社

離宮八幡宮境内社

気比社・鹿島神社・蛭子神社

離宮八幡宮境内社

天照皇太神社・武内社

離宮八幡宮石清水

石清水

離宮八幡宮若宮社

若宮社

離宮八幡宮拝殿

拝殿

離宮八幡宮拝殿

拝殿

離宮八幡宮本殿

本殿

メモ

JR山崎駅のすぐそばに鎮座する。山崎駅の敷地の大半は離宮八幡宮の旧境内なので、当然といえば当然なのだが。西国街道に面し、境内のすぐ西側が京都府と大阪府の境界となっている。

境内には油祖の像や本邦製油発祥地の碑、河陽離宮故址碑など離宮八幡宮の由緒に由来するモニュメント、神領を示す標石や相応寺の礎石と伝えられる「かしき石」などの歴史的遺物が多い。社殿の周囲には、『都名所図会』にも描かれている武内社・若宮社をはじめ多くの境内社が並ぶ。

初めての参拝は平成18年、お盆の帰省の帰途に立ち寄った。2度目の参拝は平成29年、天王山の自玉手祭来酒解神社の御朱印をいただくためだったのだが、前回参拝が慌ただしく写真も余り撮っていなかったので、今回はじっくり境内を見て回った。宮司さんからは酒解神社のことや荏胡麻のこと、松山の朝日八幡神社のことなどを伺い、有意義な時間を過ごすことができた。

離宮八幡宮の概要

名称 離宮八幡宮
御祭神 応神天皇〔おうじんてんのう〕
〈相殿〉
酒解大神〔さかとけのおおかみ〕(大山祇神)
比売三神〔ひめさんしん〕(市杵島姫命・湍津姫命・田心姫命)
鎮座地 京都府乙訓郡字大山崎小字西谷21番地の1
創建年代 貞観元年(859)
社格等 旧府社
例祭 9月15日(放生会)
神事・行事 1月1日/歳旦祭
1月中旬/どんど祭(左義長)
4月上旬/日使頭祭(春の例祭)
12月31日/年越祭
文化財 〈重文〉文大山崎離宮八幡宮文書(28巻・1冊・1鋪・11通、附:漆塗文書箱2合)〈国登録有形文化財〉本殿 拝殿 中門 透塀 高天宮神社

交通アクセス

□JR京都線「山崎駅」より徒歩2分
□阪急京都本線「大山崎駅」より徒歩5分

自玉手祭来酒解神社
自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ) 正式名称:自玉手祭来酒解神社 通称:酒解神社 旧称:天王社(天神八王子社・山崎天王社・山崎八王子社・牛頭天王社・八王子天王社等) 御祭神:大山祇神(酒解神)/相殿:素盞嗚尊 創建
諸国神社御朱印集
全国各地の神社を御朱印、由緒、アクセスなどの紹介。伊勢神宮をはじめ旧官国幣社、旧府県社、別表神社、さまざまな由緒を持った神社の由緒と御朱印を都道府県別に紹介する。現代の御朱印の他、江戸時代から明治、大正、昭和戦前の貴重な御朱印、海外廃絶神社の御朱印も掲載。

コメント

  1. […] (690~97)仲哀天皇・神功皇后の行宮跡に足煩地主神を祀り、沼戸明神と称したと伝えられます。後に山城国乙訓郡山崎の山崎八幡宮(離宮八幡宮)を勧請し、山崎八幡宮と改めました。 […]

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