吉田神社は貞観元年(859)藤原山蔭が藤原氏の氏神である春日大社より御分霊を勧請したことに始まる。平安京における藤原一門の氏神とされ、二十二社の制にも列した。室町時代、吉田兼倶は吉田神道を大成、大元宮を建立してその根元殿堂とした。以来、吉田神道の中心となり、吉田家は全国の神職の大半を傘下に収めるようになった。
正式名称 | 吉田神社〔よしだじんじゃ〕 |
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御祭神 | 建御賀豆知命 伊波比主命 天之子八根命 比売神 |
社格等 | 式外社 二十二社 旧官幣中社 別表神社 |
鎮座地 | 京都市左京区吉田神楽岡町30 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.yoshidajinja.com/ |
御朱印
(1)平成18年拝受の御朱印。中央上の朱印は大元宮の社殿に「吉田神社」「大元宮」、下は「吉田神社」、右は「吉田神楽岡鎮座」。
(2)平成29年拝受の御朱印。中央の朱印は「吉田神社」、右は「吉田神楽岡鎮座」。
(3)平成29年拝受、末社・大元宮の御朱印。上の朱印は「第一霊場 吉田神社 大元宮」。下は大元宮の社殿に「吉田神社」「大元宮」。
(4)平成29年拝受、末社・竹中稲荷神社の御朱印。上の朱印は宝船で帆に「竹中神社」。下は「竹中稲荷神社」。
昔の御朱印
江戸・明治の御朱印
(1)明和6年の御朱印。墨書は「奉納中臣祓/日本最上/神祇齋場/太元宮廣前/當番/行者」。中央に宝印はない。左下の黒印は判読できない。
(2)明治12年の御朱印。墨書は「官幣中社/吉田神社/社務所」。中央の朱印は「吉田社印」。左下の印は「吉田神社社務所之印」。
(3)明治13年の御朱印。墨書・朱印は明治12年のものと同じ。
大正・昭和の御朱印
(1)時期不詳の御朱印。大正から昭和初めのものと思われる。上の朱印は「京都市吉田山 官幣中社吉田神社」、下は「吉田社印」。
(2)大正15年の御朱印。中央の朱印は「吉田社印」。右上の印は「山城神楽岡鎮座」、左下は「官幣中社吉田神社社務所印」。
(3)昭和4年の御朱印。中央の朱印は「官幣中社吉田神社」、左下は「吉田神社社務所印」。
(4)昭和16年の御朱印。上の朱印は「山城神楽岡鎮座」、下は「官幣中社吉田神社」。
(5)昭和4年、末社・大元宮の御朱印。中央の朱印は「官幣中社 吉田神社」「日本第一霊場 太元宮」、右上は「日本第一霊場 斎場所太元宮」「天神地祇八百萬神」。
(6)時期不詳、末社・竹中稲荷神社の御朱印。朱印は宝船で、帆に「竹中神社」。
(7)時期不詳、末社・竹中稲荷神社の御朱印。上の踊る人の印はよくわからないが、江戸時代の記録にある「蝶々踊」の様子であろうか。下の印は「竹中神社神栄組之印」。
御由緒
吉田神社は京都の北東、神楽岡とも称される吉田山に鎮座する。長岡京における大原野神社と同じく、藤原氏の氏神である春日大社の御分霊を祀り、皇室・藤原氏により深く尊崇された神社であるが、それ以上に、吉田神道の中心として歴史上に名高い。
清和天皇の貞観元年(859)藤原山蔭が大和より春日大社の御分霊を勧請して創建した。因みに山蔭は四条流庖丁式の祖であり、料理の神として祀られる。
当初は山蔭一門の氏神としての性格が強かった。しかし山蔭の子・中正の娘である時姫が藤原兼家に嫁ぎ、その娘・詮子(東三条院)が円融天皇の女御となって一条天皇を生んだことから山蔭一門の地位も上昇した。これに伴い、吉田神社も平城京における春日大社、長岡京における大原野神社に準ずる、平安京における藤原氏一門の社と位置づけられるようになった。
一条天皇が即位した寛和2年(986)円融上皇の詔により、大原野神社に準じて春秋二季の吉田祭が官祭に列することとなり、翌延元元年(987)11月に初めて官祭に預かった。
以降も朝野の崇敬篤く、正暦2年(991)十九社(二十二社の制の前身)に列した。延文5年(1360)には正一位を奉授された。
吉田神社の祀職は卜部氏が司っていたが、一族からは『釈日本紀』を著した卜部兼直、『徒然草』で知られる卜部兼好(吉田兼好)、天台の学僧として名高い慈遍などを輩出している。なお、卜部兼直の子・兼文は平野神社の神主職を継ぎ、平野流卜部家(平野家)の祖となっている。
卜部兼煕の時、吉田を称するようになった。その子・吉田兼倶は反本地垂迹に基づく吉田神道(唯一神道・元本宗源神道)を唱え、卜部家で祀っていた斎場所・大元宮を吉田神社に移して、その根本殿堂とした。
この斎場所は大元宮を中心に東神明社(内宮)・西神明社(外宮)・東西諸神社(式内3132座の神を祀る)を配する。天正18年(1590)には後陽成天皇の勅により大元宮の後方に神祇官の八神殿が再興された(その後、八神殿の神璽は明治5年に宮中の神殿に戻されている)。
吉田兼倶は後土御門天皇や将軍・足利義政・義尚の信任を得、神祇管領長上を称し、神祇伯白川家を抑えて神祇界を統括しようとした。その後も吉田兼右・兼見らの活躍によって吉田神道は発展し、ついに寛文5年(1665)諸社禰宜神主法度において、吉田家による神職許状の発給が定められ、名実ともに神祇界の長となった。江戸時代は朱印地590石を有した。
明治4年(1871)には官幣中社に列格。
境内には斎場所大元宮のほか、藤原山蔭卿を祀る山蔭神社、吉田兼倶を祀る神龍社、神楽岡の地主神である神楽岡社、吉田町の鎮守である今宮社などがある。摂社・若宮社の祭神は天之子八根命の御子・天忍雲根命で、元は本社の第二殿と第三殿の間に無社殿で祀られていたが、延元元年(1336)社殿が造営され、慶安元年(1648)現在の場所に遷されたという。
写真帖
見どころ
■斎場所・太元宮
文明16年(1484)吉田兼倶が現地に設けた。八角形の本殿に六角形の後殿を接続した特異な建築で、国の重要文化財。吉田神道の教説に基づき、天地の根源である大元尊神を中心に全国の式内社の神々3132座、天神地祇八百万の神を祀る。ここに一度参詣すれば全国六十余州の神社に参拝したのと同じとして庶民の信仰を集めたという。
■本殿
春日大社と同型式で、春日造りの本殿4棟が横一列に並ぶ。文化11年(1814)~12年(1815)もしくは弘化4年(1847)~嘉永元年(1848)の遷宮時に造営されたと考えられている。春日造りの古式を伝える建築で、京都府指定有形文化財。
■若宮社
元は本殿第二殿と第三殿の間に無社殿で祀られていたが、延元年間(1336~39)吉田兼熈が社殿を建立した。慶安元年(1648)に現在地に移された時に今の社殿が造営されたと考えられている。京都府指定有形文化財。
■神龍社
吉田神道を大成し、大元宮を創始した吉田兼倶を祀る。永正10年(1513)に鎮祭、明治13年(1880)吉田神社の末社に定められた。
■山蔭神社
吉田神社の創建に貢献のあった藤原山蔭卿を祀る。昭和32年(1957)の吉田神社創建1100年大祭を機に、昭和34年(1959)鎮祭された。山蔭は包丁の神・料理飲食の祖神として料理関係者の信仰を集めており、5月8日の例祭には生間流包丁式の奉納などが行われる。
メモ
初めて参拝したときは(まだ御朱印拝受を本格的には始めていなかった)、大元宮を見るのが主目的で、宗忠神社のほうから神楽岡を登ったものの、時間が遅くてすでに門が閉まっていた。やむなく岡を越えて吉田神社を参拝。御朱印拝受は二度目の参拝で、京都出張の仕事前。あまりゆっくりはできなかったが、しっかりと大元宮まで登ることができた。境内には幼稚園があり、社殿前の広場が運動場になっているようで、この時は園児達が運動会の練習をしていた。
吉田神社の概要
名称 | 吉田神社 |
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御祭神 | 〈第一殿〉 建御賀豆知命〔たけみかづちのみこと〕 〈第二殿〉 伊波比主命〔いはいぬしのみこと〕 〈第三殿〉 天之子八根命〔あめのこやねのみこと〕 〈第四殿〉 比売神〔ひめがみ〕 |
鎮座地 | 京都市左京区吉田神楽岡町30番地 |
創建年代 | 貞観元年(859) |
社格等 | 式外社 二十二社 旧官幣中社 別表神社 |
例祭 | 4月18日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月節分前後/節分祭 2月11日/紀元祭 2月19日/神龍社例祭 2月25日/天満宮社例祭 3月17日/祈年祭 4月19日/菓祖神社春季大祭 4月29日/竹中稲荷社春季大祭 5月8日/山蔭神社例祭 5月第2日曜日/氏子講社大祭 6月17日/三社社例祭 6月30日/夏越大祓 8月24日/今宮社例祭 9月敬老の日/敬老祭 9月23日/神楽岡社例祭 9月28日/竹中稲荷社例祭 10月第2日曜日/今宮社神幸祭 10月17日/両大神宮祭 10月19日/山蔭神社恵比寿祭 10月最終日曜日/神楽岡社神幸祭 11月3日/竹中稲荷社秋季大祭 11月11日/菓祖神社秋季大祭 11月14日/今宮社御火焚祭 11月23日/新嘗祭 11月24日/大元宮例祭 12月17日/若宮社例祭 12月31日/師走大祓・除夜祭 |
文化財 | 〈重文〉斎場所大元宮 〈府指定有形文化財〉本殿4棟・中門・東御廊・西御廊・摂社若宮社本殿・末社斎場所中門 |
巡拝 | 神仏霊場110番 |
交通アクセス
□京阪本線「出町柳駅」より徒歩20分、またはバス
■市バス201系統みぶ行き「京大正門前」下車徒歩約5分
□JR・近鉄「京都駅」よりバス
■市バス206系統北大路バスターミナル行き「京大正門前」下車徒歩約5分
□阪急京都線「河原町駅」よりバス
■市バス201系統百万遍行き「京大正門前」下車徒歩約5分