虎ノ門の金刀比羅宮は、万治3年(1660)丸亀藩主・京極高和が芝・三田の藩邸内に金毘羅大権現(香川県琴平町の金刀比羅宮)を勧請したことに始まる。延宝7年(1679)藩邸の移転にともない虎ノ門に遷座。江戸市民の要望に応え、毎月10日には藩邸を開放して一般の参拝を許し、大変賑わったという。明治2年(1869)事比羅神社と改め、明治22年(1889)金刀比羅宮と改称した。
正式名称 | 金刀比羅宮〔ことひらぐう〕 |
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御祭神 | 大物主神 〈相殿〉崇徳天皇 |
社格等 | 旧府社 |
鎮座地 | 東京都港区虎ノ門1-2-7 [Mapion | googlemap] |
公式サイト | http://www.kotohira.or.jp/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。右上は丸に金の神紋、左上は蔭紋の羽団扇。下の朱印は「金刀比羅宮」。
(2)平成23年拝受の御朱印。構成は平成17年のものと同じ。
昔の御朱印
昭和8年頃の御朱印。朱印は中央に「金刀比羅宮」、四隅に「東」「京」「虎」「門」。
御由緒
虎ノ門に鎮座する金刀比羅宮は、万治3年(1660)讃岐丸亀藩主・京極高和が芝・三田の江戸屋敷内に金毘羅大権現(香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮)から御分霊を勧請したことに始まる。延宝7年(1679)江戸屋敷の移転にともない虎ノ門(江戸城の裏鬼門)の現社地に遷座した。
金比羅信仰の高まりとともに江戸市民の熱望を受け、毎月10日、一般の参拝のために屋敷を開放した。諸藩が公開した邸内社は数多いが、虎ノ門の金毘羅大権現は三田小山町にあった久留米藩有馬家の水天宮(現在は日本橋蛎殻町)と並んでもっとも人気を集め、歌川広重の錦絵にも描かれるほどであった。
安藤優一郎氏の『観光都市 江戸の誕生』によれば、天明8年(1788)以降の金刀比羅社の初穂金は年間100両から150両に達し、京極家の貴重な収入源になっていたという。現在も拝殿前に建っている銅鳥居は芝・麻布・京橋などの商人や職人が中心となって寄進したもので、すでに大名の邸内社の枠を超え、地域の人々の信仰を集めるようになっていた。
明治2年(1869)事比羅神社と改称。明治4年(1871)京極邸から社地を分割して独立し、明治6年(1873)府社に列格した。明治22(1889)年、金刀比羅宮と改称する。
関東大震災での被災は免れたが、昭和20年(1945)米軍の空襲により社殿等全焼した。昭和26年(1951)伊藤忠太の設計校閲による現在の拝殿・幣殿が完成。昭和58年(1983)本殿が再建された。
神紋は讃岐の金刀比羅宮と同じ丸金だが、蔭紋に葉団扇紋を用いる。これは江戸時代、庶民の間で「虎ノ門の金比羅様には天狗まします」と言われたためだという。
写真帖
メモ
虎ノ門のオフィス街の真ん中に鎮座する。境内には地上26階の虎ノ門琴平タワーがそびえる。無粋なコンクリートの固まりみたいなビルと違い、先進的なデザインのビルは、意外に神社と調和している。極力神社の尊厳を損なわないようにしているのだろうという配慮が感じられる。
金刀比羅宮の概要
名称 | 金刀比羅宮 |
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通称 | 虎ノ門金刀比羅宮 |
旧称 | 虎ノ門金毘羅大権現 事比羅神社 |
御祭神 | 大物主神〔おおものぬしのかみ〕 〈相殿〉 崇徳天皇〔すとくてんのう〕 |
鎮座地 | 東京都港区虎ノ門一丁目2番7号 |
創建年代 | 万治3年(1660) |
社格等 | 旧府社 |
例祭 | 10月10日 ※10月9日/大祭前日祭 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月4日/江戸消防記念会第二区道具中梯子乗り奉納 1月9日/初こんぴら前日祭 1月10日/初こんぴら祭 2月3日/節分追儺祭(福豆撒き) 2月11日/紀元祭 2月20日/祈年祭・喜代住稲荷神社大祭 6月30日/夏越大祓式・道饗祭 11月23日/新嘗祭 12月31日/年越大祓式・鎮火祭・除夜祭 |
交通アクセス
□虎ノ門駅(銀座線)より徒歩1分
□霞ヶ関駅(丸ノ内線・千代田線・日比谷線)より徒歩5分