一之宮神社は聖武天皇の勅願によって創建されたと伝えられる。江戸時代以前は四国八十八ヶ所の62番札所だった。元は1kmほど北の白坪の地にあったが、延宝7年(1679)現社地に遷座した。伊予小松藩主の祈願所でもあった。
正式名称 | 一之宮神社〔いちのみやじんじゃ〕 |
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御祭神 | 大国主之大神 事代主之大神 大山積之大神 |
社格等 | 旧村社 旧四国62番札所 |
御詠歌 | さみだれの後に出でたる玉の井は 白坪なるや一の宮かわ |
鎮座地 | 愛媛県西条市小松町新屋敷131-1 [Mapion|googlemap] |
御朱印
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昔の御朱印
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(1)寛政7年(1795)の納経(御朱印)。文字は版木押しで「奉詣拝/伊豫國/一宮大明神/別當/宝壽寺」。中央に朱印はない。左下の黒印は「寶壽精舎」。
(2)天保11年(1840)の納経(御朱印)。文字は版木押しで「六十二番靈刹/伊豫國一宮大明神/別當寶壽寺」。中央に朱印はない。左下の黒印は「寶壽精舎」。
(3)大正13年(1924)の御朱印。中央の朱印は二重亀甲に「伊豫 周布郡 新屋敷 一之宮神社」。左下は「一宮社印」で、現在の印と同じもののようだ。
御由緒
御祭神
■大国主之命…神代の出雲国の主神。素戔嗚命の子とも六世の孫ともいう。少彦名神と協力して天下を経営、農業をはじめ禁厭(まじない)・医薬などの道を教え、今出雲大社に祀る。
■事代主之命…大国主之命の子。出雲国で父神を輔けて国政を司っていたが、天照大神の命で国土を献上する。
■大山積之大神…伊弉諾・伊弉冉命の子。山をつかさどる神。
※神社由緒書による。
由緒(歴史)
江戸時代以前は一之宮神社が四国八十八ヶ所の62番札所であった。現在は旧別当の宝寿寺が札所となっている。
社伝によれば、天平宝字年間(757~65)大己貴命(大国主命)の神託を受けた聖武天皇の勅願により、周布郡井出郷白坪の里(現社地の北約1km、中山川の北岸)に三柱の神を奉斎したことに始まる。この時、道慈律師が法楽所として金剛宝寺(現在の宝寿寺)を建立した。以来、一国一之宮と称して人々の崇敬を受けた。
境内地が低い場所にあり、たびたび中山川の氾濫による水害を受けたため、たびたび南方の山に遷座したが、そのたびに元の地に祀るよう託宣があったため、旧地に戻したという(澄禅『四国遍路日記』)。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦火で焼失。寛永13年(1636)宥伝上人が現社地の辺りに宝寿寺を再興した。承応2年(1653)に四国霊場を巡拝した澄禅大徳は、一ノ宮に参拝した後、川を渡って新屋敷というところに至り、社僧の天養山保寿寺(宝寿寺)に一泊したと『四国遍路日記』に記している。
しかし、毎年夏の中山川の洪水に悩まされるため、万治年間(1658~61)村人が相議って現社地に奉遷した(由緒書による)。ただし、境内石碑によれば延宝7年(1679)藩主の明によって遷座したという。
これについて、貞享4年(1687)に刊行された真念法師の『四国辺路道指南』には、元々の四国遍路では一の宮→香園寺→横峰寺の順で参拝していたが、一の宮が新屋敷に遷ったため、横峰寺→香園寺→一の宮の順になったと記されている。
寛永13年(1636)初代小松藩主となった一柳直頼は当社を三島神社・高鴨神社とともに小松三社の氏神と定め、歴代藩主の崇敬を受けた。
明治の神仏分離により宝寿寺と分離。住職が復飾して神職となったこともあってか、宝寿寺は一時廃寺となり、香園寺が62番札所を兼ねた。その後、明治10年(1877)四国遍路の行者であった大石龍遍上人によって再興されるが、大正10年(1921)予讃線の工事に伴い、現在地に移転した。
現在、靖国神社のある辺りが宝寿寺の旧境内地とのこと。また境内の片隅には宝寿寺の歴代住職の墓所も残っている。
「一国一宮」について
四国霊場62番一国一宮と伊予国一宮大山祇神社(及び64番別宮大山祇神社・南光坊)との関係については解釈が難しい。四国遍路の案内書でも軽く由緒に触れるだけである。
当社は古くから「一国一宮」「伊予国一宮大明神」と称されており、境内にも「一國一宮」と刻まれた古い社号標や手水鉢が残っている。しかし、言うまでもなく伊予国の一宮は大山祇神社である。
諸国の中には一宮が交代したり、複数の神社が一宮を争ったところもある。しかし、伊予国においてそういうことがあったという痕跡はない。もしそういう神社を挙げるとすれば、当社より『伊予国神名帳』で大山積大明神(大山祇神社)より上位に置かれている高賀茂大明神(西条市小松町南川の高鴨神社)のほうが相応しいだろう。
御朱印をいただいた時、このことについて宮司さんにうかがったが、宮司さんは当社が伊予国の一宮という認識はしていないようで、むしろ別宮大山祇神社と同じく大三島の遙拝所であったと考えていらっしゃるようだった。
宮司さんによれば、現在、旧鎮座地の白坪は干拓のために海岸線から遠くなっているが、元は中山川の河口であり、当地方から大三島に向かう際の船着き場であったという。
とすると、一之宮の社名も、伊予国一宮大山祇神社からの勧請、もしくは大三島の地御前ということを示すものかもしれない。河野氏は勢力範囲の各地に三島明神を勧請したが、その中には新居浜市の一宮神社のように「一宮」を称する神社がある。空性法親王の御巡行記には、大三島から勧請したと見られる多くの一の宮の名が見られる。
問題は主祭神が大国主命で、神紋が亀甲であることである(大山祇神社及びその分社は大山祇神を主祭神とし、神紋は「御敷に三文字」)。空性法親王の御巡行記でも、他の一宮を称する神社とは違い、「大国主ノ一宮」とされている。
大山積神を相殿に祀るところからみて、大山祇神社の分社と大国主命を祀る神社が合祀されたのかもしれない。
写真帖
メモ
一之宮神社の宮司さんは仕事の関係で他市に住んでいるため、平素は不在。正月ならいらっしゃるだろうと思って1月2日に参拝、御朱印をいただき、いろいろな話を聞くことができた。
幕末の藩主であった一柳頼紹は勤王の志高く、自ら軍を率いて京都に滞在し、三条実美らと親交があったという。文久3年(1863)の七卿落ちに際しては、一時、実美を当社で匿ったとのこと。拝殿に掲げられた、三条実美が奉納したという絵馬を教えてくださった。
そのほかにも郷土史や神社の歴史についての話をうかがい、歴代住職の墓所や「一国一宮」と刻まれた古い石造物を案内してくれるなど、楽しい時間を過ごさせていただいた。
一之宮神社の概要
名称 | 一之宮神社 |
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旧称 | 一宮大明神 伊予国一宮大明神 一国一宮 |
御祭神 | 大国主之大神〔おほくにぬしのおおかみ〕 〈配祀〉 事代主之大神〔ことしろぬしのおおかみ〕 大山積之大神〔おほやまつみのおおかみ〕 |
鎮座地 | 愛媛県西条市小松町新屋敷甲131番地の1 |
創建年代 | 天平宝字年間(757~65) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 10月17日 |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭 旧3月15日/春祭(早苗祭) 旧6月25日/夏祭(夏越祭) ※『平成「祭」データ』による |
巡拝 | 四国八十八ヶ所旧62番札所 |
交通アクセス
□JR予讃線「伊予小松駅」より徒歩約5分