伊佐爾波神社は延喜式神名帳所載の古社で、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に行幸された際の行宮跡に奉斎したと伝えられる。中世には河野氏が深く崇敬し、湯月八幡宮と称して道後七郡の総守護とされた。八幡造りの社殿は、松山藩主・松平定長が神教を受け、江戸城における射礼を無事に終えることができたため、その奉賽として造営したと伝えられる。
正式名称 | 伊佐爾波神社〔いさにわじんじゃ〕 |
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御祭神 | 足仲彦尊 気長足姫尊 誉田別尊 市杵島姫尊 湍津姫尊 田心姫尊 〈相殿〉東照大神 |
社格等 | 式内社 旧県社 |
鎮座地 | 愛媛県松山市桜谷町173 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://isaniwa.ddo.jp/ |
御朱印
(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は三つ巴の神紋。右上は「延喜式内社」、左下は「伊豫國伊佐爾波神社」。
(2)平成28年拝受の御朱印。朱印の組合せは平成18年のものと同じだが、すべて新しくなっている。
御由緒
伊佐爾波神社は、道後温泉にほど近い道後山の山腹に鎮座する。
創建については不詳だが、社伝によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に行幸された際の行宮跡に建てられたものという。この時、沙庭を立てて天神の勅を請け奉ったので沙庭=伊佐爾波と称するようになったとする。
延喜の制では、小社に列した。
中世は湯月八幡宮と称し、領主・河野家から厚く尊崇された。元は伊佐爾波岡と呼ばれていた現在の道後公園の山麓に鎮座していたが、建武年間の頃、河野氏による湯築城の築城に際して現社地に遷座し、道後七郡の総守護とされた。社領は50石であったという。
慶長8年(1603)松山城主となった加藤嘉明は当社を鎮守として社殿を修理し、社領50石を加えて100石とした。松山城の守護として八社八幡を定めた際には、その一番社とされている。
なお、配祀の東照大神は、元和4年(1618)加藤嘉明による勧請である。
その後、松山藩主となった松平(久松)氏も深く崇敬し、当社と味酒神社(現・阿沼美神社)、正八幡宮(現・雄郡神社)の祭礼は三祭と呼ばれたという。
現在の社殿は寛文7年(1667)の竣工で、石清水八幡宮を模したとされる典型的な八幡造り。国の重要文化財に指定されているが、これについては次のような伝承が残っている。
松山藩第三代藩主の松平貞長は弓の名手として誉れが高かった。寛文2年(1662)江戸城での弓の競射を命じられ、湯月八幡宮に祈願した。するとある夜、夢枕に八幡大神が現れ、指図通りにすれば必ず金的を射止めるであろうと託宣した。
当日、貞長が弓を引き絞り、八幡大神を念ずると、金の鳩が目の前を飛んだ。これこそ大神の指図と思い、弓を放つと、見事金的に的中した。そこで、かねて誓っていた通り、奉賽として石清水八幡宮と同じ建物を建てたのが現在の社殿である。
また、この時50石に減じていた社領に150石を加増し、200石としたという。
明治4年(1871)県社に列格。昭和31年(1956)本殿が国の重要文化財に指定された。
写真帖
メモ
日本三大古湯の一に数えられる道後温泉近くの岡の上に鎮座する。
伊予鉄道の道後温泉駅の前の道をまっすぐ歩いていくと、正面に伊佐爾波神社の石段が見えてくる。自然石を用いた石段の上に朱塗りの楼門が見える。
付近には湯神社をはじめ、一遍上人誕生の地である宝厳寺、六部様として知られる儀安寺、衛門三郎ゆかりの石手寺など由緒ある神社仏閣も多い。
伊佐爾波神社の概要
名称 | 伊佐爾波神社 |
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旧称 | 湯月八幡宮 |
御祭神 | 足仲彦尊〔たらしなかつひこのみこと〕 気長足姫尊〔おきながたらしひめのみこと〕 誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕 市杵島姫尊〔いちきしまひめのみこと〕 湍津姫尊〔たぎつひめのみこと〕 田心姫尊〔たごりひめのみこと〕 〈相殿〉 東照大神〔あずまてるのおおかみ〕 |
鎮座地 | 愛媛県松山市桜谷町173番地 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 式内社 旧県社 |
延喜式 | 伊豫國温泉郡 伊佐尓波神社 |
例祭 | 10月6日 ※10月5日宵宮祭、10月7日神幸祭 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月3日/元始祭 2月3日/厄除・星祭 2月11日/紀元祭 2月12日/常盤新田霊社例祭 2月19日/祈年祭 4月8日/高良玉垂社例祭 5月17日/早苗祭 7月6日/素鵞社例祭 7月30日/夏越祭 11月15日/綿着・七五三祭 12月31日/大祓式 |
文化財 | 〈重要文化財〉本殿(附:透塀一棟) 申殿及び廊下 楼門 回廊 附:末社二棟・石灯籠二基・棟札一枚 太刀(銘:国行)〈県有形民俗文化財〉算額 |
巡拝 | 松山八社八幡(一番社) |
交通アクセス
□伊予鉄市内電車「道後温泉駅」より徒歩5分