明和6年(1769)六十六部の納経帳(2)

明和6年(1769)六十六部の納経帳表紙

明和6年(1769)に浄円坊という六十六部廻国聖が近畿から山陽、四国を巡拝した納経帳の紹介。数が少ない18世紀中頃の納経帳である。ここでは120ヶ所分ある納経のうち24ヶ所を紹介する。山城から近江に入り、再度山城に入って、京都市中の寺社の途中までになる。
明和6年(1769)六十六部の納経帳

※各寺社の概要説明のうち、寺社名や所在地は当時のもの、御祭神・御本尊・宗派は現在のものとする。

あわせて読みたい
昔の納経帳・集印帖 これまで資料として収集してきた江戸時代から昭和に至る納経帳や御朱印を紹介する。御朱印の歴史や意義に関する議論の混乱は、実際の資料を見ることなく想像で語る人が...
目次

三室戸寺/上醍醐寺

三室戸寺・上醍醐寺の納経

【右】三室戸寺
明星山 三室戸寺
御本尊:千手観世音菩薩
宗派:本山修験宗 別格本山(江戸時代は天台宗寺門派)
所在地:山城国宇治郡三室村(京都府宇治市菟道滋賀谷)
公式サイト:https://www.mimurotoji.com/

■墨書は「奉納経/西國拾番千手観世音宝前/城州宇治郡三室戸寺/〓〓/行者丈」、日付は「明和六丑五月廿日」。朱印は2ヶ所に押されているが、同じもので「城州弎室戸寺」。

★西国三十三所の第10番札所。宝亀元年(770)光仁天皇が大安寺の行表禅師に勅して宮中の御室を当地に移し、奇瑞によって得た一尺二寸の観世音菩薩の尊像を本尊として御室戸寺と称したことに始まる。延暦24年(805)桓武天皇が二丈一尺の千手観世音菩薩の像を造立し、先の一尺二寸の尊像を胎内に納め、帝都鎮護の寺とされた。

【左】上醍醐寺
深雪山 上醍醐寺
御本尊:准胝観世音菩薩
宗派:真言宗醍醐派 大本山
所在地:山城国宇治郡醍醐村(京都市伏見区醍醐醍醐山)
公式サイト:https://www.daigoji.or.jp/

■墨書は「奉納經/西國十一番山城上醍醐寺/本尊准胝仏母/開山理源大師/勧化所/行者丈」、日付は「明和六丑年五月廿一日」。上の朱印は十六八重菊と五七桐の御紋。下の印は判読できない。

★西国三十三ヶ所の第11番札所。札所本尊は准胝堂に祀られる准胝観世音菩薩。貞観18年(876)理源大師聖宝が醍醐寺を開いたとき、醍醐水の傍らの柏の霊木から准胝観音の尊像を彫り、柏の霊木のあった場所に堂を立てて祀ったと伝えられる。

正法寺/石山寺

岩間寺・石山寺の納経

岩間寺
岩間山 正法寺 ※通称/岩間寺
御本尊:千手観世音菩薩
宗派:真言宗醍醐派
所在地:近江国滋賀郡内畑村(滋賀県大津市石山内畑町)
公式サイト:http://www.iwama-dera.or.jp/

■墨書は「奉納經/本尊千手観世音ササ(菩薩)/西国第十二番/江州 岩間寺/行者丈」、日付は「明和六丑五月廿一日」。中央と左下の朱印は同じもので「正法寺」、右上の印は「岩間山」。
※「ササ」は「菩薩」を省略して草冠を二つ重ねた略字で、カタカナの「サ」を二つ重ねたように見えることから、俗に「ササ菩薩」という。

★西国三十三所の第12番札所。養老6年(722)元正天皇の病気平癒の祈願を成満した泰澄上人が、霊地を求めて訪れた岩間山の桂の大樹から千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身の千手観世音菩薩像を刻んだ。元正天皇の御念持仏を胎内に納めて本尊とし、一寺を建立したのが始まりと伝えられる。

【左】石山寺
石光山 石山寺
御本尊:如意輪観世音菩薩
宗派:東寺真言宗 大本山
所在地:近江国滋賀郡寺辺村(滋賀県大津市石山寺)
公式サイト:https://www.ishiyamadera.or.jp/

■墨書は「奉納經/本尊二臂如意輪大士寶前/江州石山寺/行者」、日付は「明和六年丑五月廿二日」。中央に宝印はない。左下の黒印は判読できない。

★西国三十三所の第13番札所。寺伝によれば、天平19年(747)聖武天皇の勅願により、良弁僧正が聖徳太子の念持仏である如意輪観音の像を祀ったことに始まる。平安時代には清水寺・長谷寺とともに三観音と称され、貴族による石山詣でが盛んになった。『蜻蛉日記』の藤原道綱母や『更級日記』の菅原孝標女など多くの女流文学者が参詣し、紫式部は石山寺で『源氏物語』の着想を得たとされる。

近江国分寺/建部大社

近江国分寺・建部大社の納経

【右】近江国分寺
別保山 国分寺(?) ※通称/近江国分寺
御本尊:薬師如来
宗派:曹洞宗
所在地:近江国滋賀郡別保村(滋賀県大津市別保)
※滋賀郡北大路村(大津市北大路)に国分寺の流れを汲む薬師堂のようなものがあり、それを国分寺に見立てていた可能性も考えられる。

■墨書は「奉納經/本尊薬師如来/江州国分村/国分寺/行者」、日付は「明和六年五月廿二日」。中央に宝印はない。右の黒印は「〓石」、左下は「勝興」。

★近江国分寺の歴史は複雑である。甲賀郡信楽に紫香楽宮の造営を始めた聖武天皇は、総国分寺として甲賀寺を建立した。しかし、平城京に戻り、東大寺を総国分寺として造営することになったため、甲賀寺が近江国分寺になったと考えられている。延暦4年(785)火災で焼失したが再建はされなかった。国分寺の機能は瀬田川西岸にある国昌寺に移され、さらに弘仁11年(811)正式に国分寺とされたという。一説には、甲賀寺から国昌寺に移される間に、瀬田川東岸の瀬田廃寺(桑畑廃寺)が国分寺だった時期があるともいわれる。

★瀬田川西岸に移された国分寺は鎌倉時代初頭までは堂宇が残っていたようだ。国分寺の遺構は見つかっていないが、元の滋賀郡国分村、現在の晴嵐小学校から滋賀県職業訓練所附近にかけて平安時代の古瓦が出土する。

★現在の国分寺は大津市別保(滋賀郡別保村)にある。本尊は白河天皇の病を治したという薬師如来で、近江国分寺の別所として創建されたという。しかし寿永3年(1134)木曽義仲の乱で焼失し、本尊は若宮八幡神社に移された。宝永3年(1706)膳所藩主・本多康慶がこの薬師如来を本尊として新楽寺を建立、後に国分寺と改称した。

★納経には「国分村」とあるので国分村にあった寺を国分寺に見立てていた可能性がある。あるいは、『日本歴史地名大系 滋賀県の地名』によれば、国分村の北隣にある北大路村(村名は国分寺の北にあった大路に因むという)に「近世にも国分寺薬師古跡が残っていたという」とのことなので、北大路村に国分寺の流れを汲む薬師堂のようなものがあり、それを近江国分寺としていた可能性も考えられる。北大路村には行基菩薩作と伝わる薬師如来像を蔵する西方寺(真宗興正派)もある。

【左】建部大社
建部大社
御祭神:日本武尊・大己貴命
所在地:近江国栗太郡神領村(滋賀県大津市神領)
公式サイト:http://takebetaisha.jp/

■墨書は「奉納妙典經/江州一宮建部大社前/栗田郡神領村/神宮寺/行者某」、日付は「明和六年丑五月廿二日」。朱印は中央・右上・左下の三ヶ所に押されているが、いずれも判読できない。

★近江国一宮。社伝によれば、景行天皇46年(116)日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅を受け、御子・稲依別王とともに神崎郡建部郷に日本武尊を奉斎されたことを創祀とする。天武天皇4年(675)現社地に遷座した。源頼朝が伊豆に流された時、当社で源氏再興を祈願し、大願成就したことから出世開運の神として信仰を集めた。

日吉大社/比叡山大講堂

日吉大社・比叡山大講堂の納経

【右】日吉大社
日吉山王大権現(日吉大社
御祭神:大己貴神・大山咋神
所在地:近江国滋賀郡上坂本村(滋賀県大津市坂本)
公式サイト:http://hiyoshitaisha.jp/

■墨書は「奉納經/江州山門坂本/日吉山王大権現 御寶前/別當/行者丈」、日付は「明和五年五月廿三日」。中央に朱印、左下に黒印が押されているが、判読できない。

★全国の日枝・日吉・山王神社の総本社。大山咋神は古くから日枝の山(比叡山)に鎮座していたことが古事記に記されている。大己貴神は天智天皇7年(668)近江京の守護神として大神神社より勧請された。伝教大師が比叡山延暦寺を開くと、比叡山の地主神、天台宗の護法上として崇敬された。

【左】比叡山 大講堂
比叡山 延暦寺 大講堂
御本尊:大日如来
宗派:天台宗(山門派)総本山
所在地:近江国滋賀郡上坂本村(滋賀県大津市坂本本町)
公式サイト:https://www.hieizan.or.jp/

■墨書は「奉納経/江州 山門/大講堂 御供所/行者丈」、日付は「明和六年五月廿三日」。上の朱印は「大講堂」、下は「延暦寺」。

★延暦寺の大講堂は天長元年(824)初代座主・義真により戒壇院の附属の建物として建立された。比叡山や木内以前にも数度の焼失と再建を繰り返している。明和6年(1769)当時の建物は寛永19年(1642)に再建されたもの。重要文化財に指定されていたが昭和31年(1956)放火で焼失した。現在の建物は昭和39年(1964)日吉東照宮の讃仏堂を移築したもの。

鞍馬寺/賀茂別雷神社

鞍馬寺・賀茂別雷神社の納経

【右】鞍馬寺
松尾山 金剛寿命院 鞍馬寺(鞍馬山 鞍馬寺)
御本尊:毘沙門天(現在は毘沙門天・千手観音・魔王尊の総称として尊天を本尊とする)
宗派:鞍馬弘教 総本山(江戸時代は天台宗山門派)
所在地:山城国愛宕郡鞍馬村(京都市左京区鞍馬本町)
公式サイト:https://www.kuramadera.or.jp/

■墨書は「奉納大乗妙典/鞍馬寺 宝前/執行/行者」、日付は「明和六丑五月廿四日」。中央に宝印はない。左下の朱印は「覺潤之印」。

★宝亀元年(770)鑑真和上の弟子・鑑禎上人が霊夢により、白馬に導かれて鞍馬山に到り、毘沙門天を祀ったことに始まる。延暦15年(796)藤原伊勢人が観世音菩薩を祀る地を探していたところ、貴船明神の教示で鞍馬山に到り、毘沙門天と合わせ祀ったという。平安京の北方守護の寺、軍神・福徳の神として広く朝野の信仰を集めた。牛若丸や鞍馬天狗の伝説でも知られる。

【左】賀茂別雷神社
賀茂別雷神社 ※通称/上賀茂神社
御祭神:賀茂別雷大神
所在地:山城国愛宕郡上賀茂村(京都市北区上賀茂本山)
公式サイト:https://www.kamigamojinja.jp/

■墨書は「奉納 大乗妙典/山城国愛宕郡一之宮/上賀茂皇太神宮御讀經所/當番/行者丈」、日付は「明和六丑年五月廿六日」。中央に宝印はない。左下の黒印は「賀經」。

★上賀茂神社と通称される。賀茂御祖神社(下鴨神社)と合わせて賀茂社と総称することが多い。延暦13年(794)平安遷都に伴い桓武天皇が行幸、平安京の守護神、皇城鎮護の神とされた。伊勢神宮に次ぐ神社とされ、弘仁元年(810)には斎院の制が設けられた。中世には二十二社の上七社、山城国一宮として尊崇された。

上御霊神社/下御霊神社

御霊神社・下御霊神社の納経

【右】上御霊神社
上御霊社(御霊神社)※通称/上御霊神社
御祭神:崇道天皇・他戸親王・井上大皇后・藤原大夫人・橘大夫・文大夫・火雷神・吉備大臣
所在地:洛中上京上御霊竪町(京都市上京区上御霊竪町)

■墨書は「奉納大乗妙典壹部/山城國愛宕郡出雲路/正観世音御廣前者也/勅願所御霊社惣本社/別當/行者丈」、日付は「明和六年丑五月廿六日」。上の朱印は十六八重菊の御紋。左下の朱印は判読できない。

★創建については詳らかでないが、社伝によれば延暦13年(794)崇道天皇(早良親王)の神霊を祀ったことに始まるとされる。一説には、平安遷都以前から当地にあった出雲氏の氏寺・上出雲寺の鎮守社であったともいう。御所の産土神として皇室の崇敬篤く、御即位大嘗祭・天下泰平御祈禱・当社の遷座祭には必ず勅使・院使が差し遣わされたという。

★『都名所図会』によれば、境内の観音堂に聖徳太子の御作で出雲寺の本尊と伝えられる聖観音が祀られていたという。納経にある「正観音」はこれのことと思われる。

【左】下御霊神社
下御霊社(下御霊神社)
御祭神:吉備聖霊・崇道天皇・伊豫親王・藤原大夫人・藤大夫・橘大夫・文大夫・火雷天神
所在地:洛中上京下御霊前町(京都市中京区下御霊前町)
公式サイト:http://shimogoryo.main.jp/

■墨書は「奉納大乘妙典 全/勅願所/帝都守護神/正一位下御霊八所大明神 廣前/神主家 雑掌/行者丈」、日付は「明和五年丑五月廿六日」。明和五年は六年の間違いと思われる。上の朱印は十六八重菊の御紋。左下の印は「出雲道」か。

★創建年代は不詳。貞観5年(863)神泉苑に六座の御霊を祀って御霊会が行われたが、この頃創祀されたものと考えられている。当初は愛宕郡出雲郷の下出雲寺境内に鎮座したと伝えられる。後に新町出水の西に遷り、天正18年(1590)現在地に遷座した。御所の産土神として皇室の崇敬篤く、宮中に御事があったときや当社の祭事などには代参や祈祷、神楽の奉納などが行われたという。

革堂行願寺/百萬遍知恩寺

革堂・百万遍知恩寺の納経

【右】革堂行願寺
霊麀山 行願寺 ※通称/革堂
御本尊:千手観世音菩薩
宗派:天台宗
所在地:洛中上京行願寺門前町(京都市中京区行願寺門前町)

■墨書は「奉納經/西國拾九番/本尊千手千眼観世音/革堂行願寺/役者/行者丈」、日付は「明和六五月廿六日」。中央に宝印はない。左下の印は「洛陽革堂」。

★西国三十三所の第19番札所で、下御霊神社に隣接している。寛弘元年(1004)行円上人によって創建された。行円上人は常に鹿革の着物を着ていたことから皮聖・革上人と呼ばれ、寺も革堂と通称されるようになったという。当初は一条小川にあったことから一条革堂とも呼ばれる。下京の六角堂(頂法寺)に対して上京の革堂といわれ、上京の町堂として有事の際には町衆の集合結束の場所とされた。

【左】百万遍知恩寺
長徳山 功徳院 知恩寺(百萬遍知恩寺)
御本尊:阿弥陀如来
宗派:浄土宗(鎮西派) 大本山
公式サイト:http://chionji.jp/

■墨書は「浄土宗門嫡流第一/奉勅願所 惣本山百万徧/御開山圓光大師御宝前/知恩寺/御堂司」、日付は「明和六己丑年仲夏廿六日」。中央の宝印は「佛法僧寶」の三宝印。右上と左下の印は判読できない。
※「奉納経」「奉納大乗妙典」といった文言がなく、これは他の浄土宗(鎮西派)の本山と同様。専修念仏を宗旨とし、浄土三部経を所依の経典とする浄土宗の立場では法華経の納経を好ましくないと考えたためか。

★浄土宗京都四ヵ本山の一。元は上賀茂神社の神宮寺で賀茂の禅坊と呼ばれた。法然上人が一時住んで専修念仏の教えを説いた。法然上人の弟子・源智上人はここを念仏の道場とし、法然を勧請開山として知恩寺と名付けた。元弘元年(1331)京都で疫病が流行したとき、第8世善阿空円上人は後醍醐天皇の勅命を受けて七日七夜の百万遍の念仏を修し、効験があったので「百万遍」の号が下賜された。令和元年(2019)正式名称を百萬遍知恩寺に改めている。

★大永3年(1523)知恩院との間で本末争いが起き、永禄3年(1560)足利義輝により知恩院住持の席次が上位とされ、浄土宗本寺の地位を知恩院に譲ることになった。納経の「浄土宗門嫡流第一」「惣本山」の文字はもともと浄土宗第一の寺であったことによるものだろう。

吉田神社 大元宮/真正極楽寺(真如堂)

吉田神社・真如堂の納経

【右】吉田神社 大元宮
吉田社斎場所(吉田神社 大元宮)
御祭神:天神地祇八百萬神
所在地:山城国愛宕郡吉田村(京都市左京区吉田神楽岡町)
公式サイト:http://www.yoshidajinja.com/

■墨書は「奉納中臣祓/日本最上/神祇齋場/太元宮廣前/當番/行者」、日付は「明和六丑五月廿六日」。中央に宝印はない。左下の黒印は判読できない。
※「奉納中臣祓」とあるのは、唯一神道(吉田神道)として「奉納大乗妙典」「奉納経」はまずいと考えたからだろう。ただし享保年間の納経帳では吉田神道配下の神社でも「奉納大乗妙典」とあり、19世紀の納経帳では納経に関する文言自体を書いていない。「奉納中臣祓」はその過渡期的な対応だと考えられる。また、この時期には納経が名目だけになり、実際の写経の奉納が行われていなかったことを示している。

★吉田神社は貞観元年(859)藤原山蔭が春日大社の御分霊を勧請したことに始まる。後に平安京における藤原氏一門の氏神として崇敬されるようになった。朝廷の公祭に預かり、二十二社の下八社に列した。文明16年(1484)吉田神道を創始した吉田兼倶が斎場所大元宮を創建、さらに天正18年(1590)宮中に祀られていた八神殿も大元宮境内に再興された。

★大元宮は吉田兼倶が吉田神道の根源殿堂として創建した。森羅万象の源、宇宙の根源神である虚無太元尊神を中心に天神地祇八百万神と日本全国の神々を祀った。

★江戸時代には大元宮が本社と見なされていたようだ。『都名所図会』も「吉田宮斎場所」として大元宮を詳しく説明し、本来の本社については「春日社は西の麓にあり。これも山蔭卿の勧請なり」と簡単に記すだけである。

【左】真正極楽寺(真如堂)
鈴聲山 真正極楽寺 ※通称/真如堂
御本尊:阿弥陀如来
宗派:天台宗(山門派)
所在地:山城国愛宕郡浄土寺村(京都市左京区浄土寺真如町)
公式サイト:https://shin-nyo-do.jp/

■墨書は「奉納大乗妙典/鈴聲山真正極楽寺/本尊阿弥陀如来/慈覺大師御作/真如堂役者/行者丈」、日付は「明和六丑年五月廿六日」。中央に宝印はない。左下の印は「真如堂/四八諸中」か。

★永観2年(984)東三条院藤原詮子(一条天皇の御母)の御願により、戒算上人が比叡山常行堂に祀られていた慈覚大師御作の阿弥陀如来像を神楽岡東の女院離宮に移し、正暦3年(992)一条天皇の勅願により寺としたことに始まる。以後、焼失や移転を繰り返したが、元禄6年(1693)東山天皇の勅願により、旧地の西南に当たる現在地に復帰・再興された。

金戒光明寺/知恩院 勢至堂

金戒光明寺・知恩院の納経

【右】金戒光明寺
紫雲山 金戒光明寺 ※通称/くろ谷(黒谷)さん
御本尊:阿弥陀如来
宗派:浄土宗(鎮西派)大本山
所在地:山城国愛宕郡岡崎村(京都市左京区黒谷町)
公式サイト:https://www.kurodani.jp/

■墨書は「本山黒谷/開山圓光大師前/藏司」、日付は「明和六丑五月廿六日」。中央の宝印は「佛法僧寶」の三宝印。右上の黒印は「浄土宗門最初處」、左下は「黒谷」。
※他の浄土宗の本山と同じく「奉納大乗妙典」等の文言はない。

★浄土宗京都四ヵ本山の一。承安5年(1175)比叡山の黒谷別所を出た法然上人が白川の地に草庵を結んだことに始まる浄土宗最初の念仏道場。比叡山の黒谷本坊・元黒谷に対して白川本坊・新黒谷と称され、江戸時代には黒谷と呼ばれるようになった。門弟の筆頭格であった信空上人に託され、4世恵尋の時、紫雲山光明寺と称した。8世運空が後光厳天皇の受戒の師となったことから「金戒」の二字を賜る。10世等熙の時、後小松天皇より「浄土真宗最初門」の勅額を賜った。

【左】知恩院 勢至堂
華頂山 大谷寺 知恩教院 勢至堂
御本尊:勢至菩薩
宗派:浄土宗(鎮西派)総本山
所在地:洛東知恩院門前(京都市東山区林下町)
公式サイト:https://www.chion-in.or.jp/

■墨書は「惣本山知恩教院/圓光恵成大師前/勢至堂/行者丈」、日付は「明和六年丑廿七日」。中央の宝印は「佛法僧寶」の三宝印。右上の朱印は判読できない。左下は「祇」か。
※他の浄土宗の本山と同じく「奉納大乗妙典」等の文言はない。

★浄土宗鎮西派の総本山、京都四ヵ本山の一。法然上人が東山吉水(知恩院勢至堂のあたり)に営んだ草庵(吉水御坊・大谷禅坊)を起源とする。この地で法然上人が入滅された後、弟子たちによって廟堂が設けられるが、嘉禄の法難で破却される。文暦元年(1234)源智上人によって再興され、伽藍が整えられた。大永3年(1523)知恩寺と本末争いが起こるが、永禄3年(1560)足利義輝から知恩院を上座とする裁定があった。慶長8年(1603)徳川家康は知恩院を菩提寺とし、母・伝通院菩提のため寺域の拡張・諸堂の建立を行い、宮門跡の制を確立して総本山の格式を整えた。

★知恩院の勢至堂は大谷禅坊の跡であり、法然上人入滅の地・知恩院発祥の地である。元の御影堂であるが、慶長8年(1603)の大造営の後、新しい御影堂に法然上人の御影が遷されたため、法然上人の本地とされる勢至菩薩像を壇上に安置し、勢至堂あるいは本地堂と呼ばれるようになった。堂内正面の「知恩教院」の額は後奈良天皇の宸翰である。

八坂神社(祇園社)/清水寺

八坂神社・清水寺の納経

【右】八坂神社
祇園社(八坂神社
御祭神:素盞嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神(※牛頭天王・頗梨采女・八王子)
所在地:洛東祇園町(京都市東山区祇園町北側)
公式サイト:http://www.yasaka-jinja.or.jp/

■墨書は「奉納經 全/洛東 祇園社/本願 成就院/役者/行者丈」、日付は「明和六丑年五月二十六日」。中央の宝印は「佛法僧寶」の三宝印か。左下の印は判読できない。

★江戸時代以前は祇園感神院、祇園社と称した。創建については斉明天皇2年(656)高句麗の調進副使・伊利之使主によって創建された、あるいは貞観18年(876)円如が観慶寺を創建し、天神が垂迹したとして一堂を建立した等諸説ある。疫病退治の霊威で朝野の崇敬を集め、二十二社の下八社に列した。また、下京一帯を氏子とし、商家の産土神として栄えた。明治の神仏分離により八坂神社と改称する。

★成就院は本願職を務めた社僧と思われる。

【左】清水寺
音羽山 清水寺
御本尊:十一面千手観世音菩薩
宗派:北法相宗 大本山(江戸時代は興福寺末)
所在地:洛東清水寺門前(京都市東山区清水)
公式サイト:https://www.kiyomizudera.or.jp/

■墨書は「奉納西國第十六番/勅願所 京 淸水寺/本尊十一面千手観世音御宝前/本坊 成就院/役者/行者丈」、日付は「明和六年丑五月廿六日」。上の朱印は十六八重菊の御紋。左下の黒印は「成就」。

★清水の舞台で有名な西国三十三所の第16番札所。宝亀9年(778)大和国子島寺の僧・賢心(延鎮)が夢告によって当地に到り、同11年(780)坂上田村麻呂の助力を得て寺を開創したと伝えられる。長谷寺や石山寺などと並ぶ観音霊場として古くから信仰を集める。

★成就院は清水寺の塔頭で現在は本坊とされている。江戸時代には三職の一つ・本願職(勧進坊)であったというが、この納経には「本坊」とある。

六波羅蜜寺/方広寺(京都大仏)

六波羅蜜寺・方広寺の納経

【右】六波羅蜜寺
補陀洛山 普門院 六波羅蜜寺
御本尊:十一面観世音菩薩
宗派:真言宗智山派
所在地:洛東轆轤町(京都市東山区轆轤町)
公式サイト:https://www.rokuhara.or.jp/

■墨書は「奉納経/西国第十七番/本尊十一面観世音/六波羅蜜寺/役者」、日付は「明和六年丑五月廿六日」。中央の宝印は判読できない。左下の黒印は「六波羅蜜寺」。

★西国三十三所の第17番札所。天暦5年(951)空也上人によって開創された西光寺を起源とする。弟子の中信が寺号を六波羅蜜寺と改め、天台の別院とした。平安末期には境域内外に平家一門の邸宅が営まれ、鎌倉時代には幕府の六波羅探題が置かれたことでも知られる。豊臣秀吉は方広寺の大仏建立に際して本堂を補修、寺領70石を寄進した。

【左】方広寺
方広寺 通称/大仏・大仏殿
御本尊:毘盧遮那仏
宗派:天台宗(山門派)
所在地:洛東大仏廻り茶屋町(京都市東山区茶屋町)

■墨書は「奉納經/京都大佛殿/廣福寺/毘沙門堂別當/宝生院/知事」、日付はない。次の蓮華王院(三十三間堂)と同じ宝生院で納経しているため、省略されたのであろう。中央上の朱印は十六八重菊の御紋。右上の朱印は「天台正宗」、左下は「京都大佛/毘沙門堂/宝生院院」。
※「廣福寺」は大仏殿のことと思われる。現在でも御朱印には「廣福殿」と書かれている。

★方広寺は豊臣秀吉が発願した大仏を安置するための寺として創建された寺である。

★文禄4年(1595)大仏殿が完成。高さ約19m、木製金漆塗の大仏が安置されたが、翌年の慶長伏見地震のため、開眼供養の前に倒壊した。その後、豊臣秀頼が銅製の大仏を再建しようとするが、慶長7年(1602)鋳物師の過失で仏像が融解、大仏殿が炎上した。慶長13年(1608)再び大仏と大仏殿の再建が計画され、慶長17年(1612)に完成した。慶長19年(1614)梵鐘が完成するが、その銘文を巡って世に言う「方広寺鐘銘事件」が起こり、大坂の陣を経て豊臣氏の滅亡に至る。

★寛文2年(1662)の地震で小破したため造り直されることになり、寛文7年(1667)完成した。木像で高さ約19m、奈良の大仏をはるかに凌ぐ大きさであった。しかし落雷による火災で大仏・大仏殿ともに焼失してしまった。この納経帳は明和6年(1769)なので、寛文7年再建の大仏の時代になる。

★天保年間(1830~44)尾張国の有志により上半身のみの木像の大仏が再興されるが、昭和48年(1673)の火災で焼失、以後は再興されていない。

★宝生院は方広寺の境内、蓮華王院(三十三間堂)との間(現在の京都国立博物館あたり)にあり、蓮華王院の別当を務めていた。明治2年(1869)境内が恭明宮の用地となり、瓦役町の現在地に移転した。本尊は毘沙門天で、後白河院の肖像を安置する。

蓮華王院(三十三間堂)/今熊野観音寺

三十三間堂・今熊野観音寺の納経

【右】蓮華王院(三十三間堂)
蓮華王院 ※通称/三十三間堂
御本尊:千手観世音菩薩
宗派:天台宗(山門派)
所在地:洛東大仏廻り三十三間堂廻り町(京都市東山区三十三間堂廻り町)
公式サイト:http://sanjusangendo.jp/

■墨書は「同所三間堂/蓮華王院/毘沙門堂別當/宝生院/知事」、日付は「明和六年丑五月廿六日」。朱印は方広寺のものと同じで、中央上に十六八重菊の御紋、右上に「天台正宗」、左下は「京都大佛/毘沙門堂/宝生院印」。

★蓮華王院は後白河法皇が平清盛に命じ、法住寺殿の一院として建立された。三十三間堂はその本堂である。建長元年(1249)の火災で焼失し、文永3年(1266)本堂だけ再建されたのが現在の三十三間堂である。豊臣秀吉の方広寺(東山大仏)造営に伴い、その境内に含まれることとなった。江戸時代は方広寺とともに妙法院の管理下に置かれ、現在も妙法院の境外仏堂となっている。

★宝生院は三十三間堂の別当であった。方広寺を参照。

【左】今熊野観音寺
新那智山 観音寺 ※通称/今熊野観音寺
御本尊:十一面観世音菩薩
宗派:真言宗泉涌寺派
所在地:山城国愛宕郡泉涌寺門前(京都市東山区泉涌寺山内町)
公式サイト:http://www.kannon.jp/

■墨書は「奉納經/西国十五番京今熊野/本尊十一面観世音宝前/観音寺役人/行者丈」、日付は「明和六年丑五月廿六日」。中央に朱印はない。左下の印は判読できない。

★泉涌寺の塔頭で西国三十三所の第15番札所。大同2年(807)弘法大師が熊野権現より授かった十一面観音を本尊として一宇を建立した。その後、嵯峨天皇の寄進を得て諸堂を建立、さらに藤原緒嗣の発願により広大な伽藍が造営された。後白河院は山麓に熊野権現を勧請して新熊野社を造営、当寺の本尊を本地仏に擬して新那智山の山号を賜った。

明和6年(1769)六十六部の納経帳(1)河内・大和・山城
■明和6年(1769)六十六部の納経帳(2)山城・近江
明和6年(1769)六十六部の納経帳(3)山城・丹波・摂津・淡路・播磨
明和6年(1769)六十六部の納経帳(4)播磨・美作・備前・備中・讃岐
明和6年(1769)六十六部の納経帳(5)阿波・土佐

※掲載の情報は最新のものとは限りません。ご自身で確認をお願いします。
※掲載されている古い資料画像(納経帳、絵葉書等)について、特に引用元を明示したもの以外は管理者が所有する資料であり、無断使用はご遠慮ください。使用を希望される場合は管理者までご連絡ください。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次