伊豫稲荷神社は、弘仁年間(810~23)伊予国司により山城国の伏見稲荷大社から勧請され、石田郷(後の山崎庄)の総鎮守とされたと伝えられる。武門の崇敬が篤く、河野氏や大洲・新谷両藩主などの祈願所とされた。享和2年(1802)朝廷より正一位を賜り、以来、正一位稲荷大明神と称する。昭和47年(1972)伊豫稲荷神社と改称した。
正式名称 | 伊豫稲荷神社〔いよいなりじんじゃ〕 |
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御祭神 | 宇迦之御魂大神 邇々芸命 伊邪那美命 菊理比売命 大宮能売命 |
社格等 | 旧県社 |
鎮座地 | 愛媛県伊予市稲荷1230 [Mapion|googlemap] |
最寄り駅 | 伊予市・向井原(JR予讃線) 郡中港(伊予鉄郡中線) バス停:稲荷西集会所前(コミュニティバス) |
御朱印
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(1)平成20年拝受の御朱印。揮毫は「正一位稲荷神社」。中央の朱印は火焔宝珠の神紋、左下の印は「伊豫稲荷神社」。(2)平成20年拝受、四国曼荼羅霊場の御朱印。揮毫は「宇迦能魂大神」。朱印は通常の神社の御朱印と同じ。
昔の御朱印
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(1)平成14年の御朱印。上の朱印は「稲荷神社神璽」、下は「愛媛県伊豫郡北山崎村大字稲荷縣社稲荷神社社務所之印」。
御由緒
御祭神
■宇迦之御魂大神
配祀
■邇々芸命
■伊邪那美命
■菊理比売命
■大宮能売命
『平成「祭」データ』・愛媛県神社庁公式サイト等による。『明治神社誌料』では伊弉諾命・伊弉冉命・瓊々杵命・田中道開命・倉稲魂命・大宮能売命の6柱となっている。
由緒(歴史)
伊豫稲荷神社は、社伝によれば弘仁15年(824)2月午の日、国司越智宿禰為澄が勅を奉じて山城国伏見稲荷大社より御分霊を勧請、石田郷の総鎮守とし、稲荷村をその神戸としたことに始まるとされる。
仁平3年(1153)の「伊予国山崎荘立券案文」に吾川郷のうち山崎保35町余が伏見稲荷社の般若会供米料田とされたことが見える。また、当社は江戸時代に山崎郷(当社の社伝では山崎郷は石田郷が改称されたものとする)と呼ばれた10ヶ村の総鎮守とされていることなどから、当社の創建は山崎郷が伏見稲荷社の荘園となったことと深く関わるであろうと考えられている。
弘安の役で戦功を上げた河野通有は、褒賞として賜った山崎庄を一族の守護神である大山祇神社に寄進。以来、河野一族は当社を深く崇敬し、稲荷村を神領地として神主による知行を安堵した。
江戸時代、稲荷村は大洲藩の支藩・新谷藩領であったが、当社の氏子地は両藩にまたがり、大洲・新谷両藩主の祈願所とされた。
当社の別当は谷上山宝珠寺で、参道には末院12坊が並んでいた。しかし正保4年(1647)頃、神主の星右京大夫が唯一神道を主張し、12坊を廃して社僧を除いたという。
元禄13年(1700)火災のため楼門を除いて社殿等焼失、翌年再建される。享和2年(1802)朝廷より神階正一位を賜った。
明治4年(1871)新谷県の県社に列格するが、同年11月、新谷県が宇和島県に編入されたため、翌5年(1872)改めて郷社に列する。昭和8年(1933)県社に昇格。
昭和47年(1972)社号を稲荷神社(正一位稲荷神社)から伊豫稲荷神社と改めた。
境内社
■庚申社・恵比須社
社殿右側に鎮座する。相殿で、庚申社の御祭神は猿田彦命、恵比須社の御祭神は恵比須神で、伊予七福神の恵比須神である。
■田中社・四大社
社殿左側に鎮座する。相殿で、田中社の御祭神は田中大神、四大社の御祭神は四大神。伏見稲荷大社では田中大神は下社摂社(最北座)、四大神は中社摂社(最北座)に祀られ、稲荷五社大明神に数えられる。
■海津見社
社殿右側に鎮座、境内の掲示では海社とある。御祭神は海津見神。
■新田社
社殿の手前右側に鎮座。御祭神は新田義治(脇屋義治)侯。義治は新田義貞の弟・脇屋義助の子で、南朝側の武将として活躍する。正平23年(1368)越後での戦いに敗れた後に出羽国に逃れ、その後、伊予に落ち延びたと伝えられる。
■久美社・命婦社
社殿裏の御山に鎮座する。覆殿の中に二つの社が並ぶ。久美社の御祭神は金毛九尾の狐霊、命婦社の御祭神は命婦霊。
久美社の創建には次のような話がある。
明治初年、九州から来た浪人風の旅人が郡中上町の門茂という宿に泊まったが、病のために長期滞在となり、嵩んだ宿賃の代わりとして大切に持ち歩いていた細長い桐箱を置いて立ち去った。
桐箱を開くと、中には支那緞子に包まれた狐の尾が納められていた。尾の切り口はミイラ化していたが、根元から次第に分かれて九つとなっており、霊気を放つ逸品であったという。
5人の人が一儲けしようと譲り受けたが、霊気に当てられて持ちきれず、恐れをなして氏神である伊予崗八幡神社に納めようとしたが、受け取ってもらえなかった。困り抜いていた時に狐は稲荷の眷属であると聞き、明治11年(1878)2月、氏子有志により当社に奉納された。
その後、大切に保管されていたが、たびたび霊夢があったため、昭和37年(1962)稲荷の眷属である命婦とともに二社併せ祀ることになった。社号は二千年に及ぶ九尾の霊力を称え、久しく美しいという字を充てて久美社としたという。
境内
■楼門
寛文2年(1662)の建造で、棟札が残っている。三間一戸の入母屋造で、本瓦葺。和様と唐様を兼ね備えた桃山風で、伊予の名工といわれた余土の治部の作と伝えられる。昭和45年(1970)愛媛県の有形文化財に指定された。
■亀石
新田社の脇にある、亀の形をした子持石。一年に一度、大雨の日に小石を産み続けるという伝承がある。安産を願い、妊婦が撫でたり、亀に乗るように腰掛けたりされるという。
■夜泣き石
庚申社のそばにある。伝承によれば、元は郡中灘町の庄屋・宮内家の奥庭にあり、風がなく月の出ていない夜更けにすすり泣きの声を立てるので夜泣き石と呼ばれた。ある人が「この石には連れの石があって、それと別れてここに据えられたから、暗くなって寂しくなるとすすり泣くのであろう。連れの石はわからないので、お稲荷さんの大岩のそばに置くと泣き止むのではないか」と言ったため、ここに安置されたという。この石を拝むと、子どもの夜泣きが治ると伝えられる。
写真帖
メモ
松山自動車道の伊予インターからほど近く、予讃線の伊予市駅からは約2kmほどのところに鎮座する。大きな稲荷社がほとんどない四国では珍しい旧県社で、『豫陽塵芥集』には「当社の如き大社は四国地にあらず」と記されているそうだ。
国道56号線の稲荷口交差点から東に入り、しばらく進むと、道の南に伊豫稲荷神社の大鳥居がある。参道を南進すると石鳥居があり、さらに進むと朱の両部鳥居と楼門が見えてくる。楼門前には木の社号標があり、「縣社正一位稲荷神社」とある。楼門の神号額は「正一位稲荷大明神」で、昭和47年の改称以前は「正一位稲荷神社」が通称として用いられていたようだ。
境内の中心には重厚な木造社殿が鎮座、その周囲を境内社が取り巻く。中でも興味深いのが金毛九尾の狐霊を祀る久美社で、参道には伏見稲荷の御山を思わせる朱の千本鳥居が建っている。因みに御神体の九尾の狐の尾は佐賀藩鍋島家に伝わる秘宝だったが、蔵番をしていた家臣によって密かに持ち出されたという言い伝えがあるという。
伊豫稲荷神社の概要
名称 | 伊豫稲荷神社 |
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旧称 | 稲荷神社(正一位稲荷神社) 正一位稲荷大明神 |
御祭神 | 宇迦之御魂大神〔うかのみたまのおおかみ〕 〈配祀〉 邇々芸命〔ににぎのみこと〕 伊邪那美命〔いざなみのみこと〕 菊理比売命〔くくりひめのみこと〕 大宮能売命〔おおみやのめのみこと〕 |
鎮座地 | 愛媛県伊予市稲荷1230番地 |
創建年代 | 弘仁15年(824) |
社格等 | 旧県社 |
例祭 | 10月第2土曜日 ※第2日曜日に神輿渡御 |
神事・行事 | 2月17日/祈年祭 旧2月上午の日/初午祭 7月20日/土用干祭(夏越祭) 11月23日/感謝祭 |
文化財 | 〈県有形文化財〉楼門 |
巡拝 | 四国曼荼羅霊場49番 伊予七福神(恵比寿神) |
交通アクセス
□予讃線「向井原駅」より徒歩13分
□予讃線「伊予市駅」・伊予鉄郡中線「郡中港駅」より徒歩25分
※1月1~3日には松山市駅・郡中港駅から初詣臨時バスが運行される。