宗像神社 | 京都市上京区

宗像神社

京都御苑内に鎮座する宗像神社は、延暦14年(795)桓武天皇の勅命により、藤原冬嗣が筑前国の宗像大社から御分霊を勧請したことを創祀とする。朝廷の崇敬篤く、式内社ではないが貞観元年(859)には従二位勲八等から正二位に進められ、貞観6年(864)には従一位を奉授された。その後、明治維新まで長く花山院家の邸内社として崇敬された。明治の東京奠都に伴い花山院家は東京に移転するが、宗像神社は旧地に留まり、明治10年(1877)府社に列した。京都御所の南西(裏鬼門)に鎮座することから、方除けの神としても信仰を集める。

正式名称 宗像神社〔むなかたじんじゃ〕
御祭神 多紀理比売命 多岐都比売命 市寸島比売命 〈相殿〉倉稲魂神 天石戸開神
社格等 国史見在社、旧府社
鎮座地 京都市上京区京都御苑9 [Mapion|googlemap]
公式サイト https://munakata-jinja.com/
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目次

宗像神社の御朱印

宗像神社の御朱印
(1)
宗像神社の御朱印
(2)

(1)平成23年拝受の御朱印。中央下の朱印は「宗像神社」、上は楢の葉の神紋。左上の印は「京都御所御苑内鎮座」。

(2)令和6年拝受の御朱印。朱印は(1)と同じ。

境内社の御朱印

少将井神社の御朱印
(3)
金刀比羅宮の御朱印
(4)

(3)令和6年拝受、少将井神社の御朱印。中央下の朱印は「少将井神社印」。右上の印は「京都御所宗像神社」、左上は「京都御所御苑内鎮座」。揮毫は中央に「少将井神社」、右下に「祇園会元御旅所」。

(4)令和6年拝受、金刀比羅宮の御朱印。中央下の朱印は「金刀比羅宮印」。右上の印は「京都御所宗像神社」、左上は「京都御所御苑内鎮座」。

昔の御朱印

宗像神社の御朱印
(5)
宗像神社の御朱印
(6)

(5)時期不詳、大正10年代のものと思われる御朱印。上の朱印は「宗像神社」、下の印は「宗像神社社務所」。

(6) 時期不詳、昭和初期のものと思われる御朱印。中央の朱印は「宗像神社」で、現在の印とほぼ同じようである。上の印は楢の葉の神紋。下は「参拝記念/府社/京都御所御苑内/宗像神社」。

宗像神社について

拝所と境内社

御祭神

主祭神
■多紀理比売命
■多岐都比売命
■市寸島比売命

宗像三女神と総称される。天孫降臨に先立ち、天照大神から「汝三神は、宜しく道の中に降りまして、天孫を助け奉りて、天孫の為に祭かれよ」との神勅を受け、筑前国の宗像に鎮まった。延暦14年(795)藤原冬嗣が自らの邸宅である東京第(第は邸宅のこと。東京一条第とも)に勧請した。『三代実録』には宗像大社と当社について「居は異なりと雖も、実は是れ同神なり」と記されている。

別名を「道主貴〔みちぬしのむち〕」といい、日本人として踏むべき道をはじめ、交通、文化、産業の道の安全繁栄の守護神とされる。また、海の神としても知られ、海産、生産、出産あるいは交通の御神徳で信仰を集める。また、当社については御所の南西(裏鬼門)に鎮座することから方除けの神としても知られ、また鎮座の由縁により建築関係者の参拝も多いという。

配祀
■倉稲魂神

藤原時平により合祀されたと伝えられる。

■天石戸開神

国史見在社。宗像三女神と同じく東京第に鎮座していた。貞観7年(865)従三位を奉授される。『花山院家記』には「天岩戸開神大石也、有霊」と記されているという。

由緒

花山院跡碑

宗像神社は京都御苑内、旧花山院邸跡に鎮座している。

社伝によれば、延暦14年(795)桓武天皇の勅命を受け、藤原冬嗣が筑前国より宗像三女神を勧請し、皇居鎮護の神として自邸である東京第に祀ったことに始まるとされる。東京第は東京一条第ともいい、後には小一条院と呼ばれるようになった。因みに「第」は邸宅の意味である。当社について、『三代実録』には「東京第社」あるいは「東一条隅神」とも記されている。

『和漢三才図会』は、延暦14年(795)藤原冬嗣が宗像神を勧請して平安京の東西の市の守護神としたことから市姫社と号したが、東の市の守護神が当社で、西の市の守護神が下京区の市比売神社だとする。

また、源師房の日記『土右記』延久元年(1069)5月18日条には、小一条院に宗像三女神が祀られるようになった経緯について当時の小一条院の主人である藤原師成の語った以下のような内容が記されている。

それによれば、小一条院は藤原内麻呂が三位の頃、息子の冬嗣に買い与えた邸宅である(つまり、平城天皇の御代ということになる)。冬嗣が内舎人の時のこと、参内の途中、東洞院近衛御門のあたりで宗像大神のお告げがあり、小一条院を指して「この地を買い取って居住すれば福と子孫に恵まれ、我もここに住して汝を守護しよう」と言った。冬嗣は恐れ畏まって「今の私には買い取る力がありません」と答えた。その後、再び同じようにお告げがあり、同じような問答を繰り返すと、父親に頼むようにと告げられた。そして「件の家の傍らに吾が居所を作れば、必ず汝の一家を護るであろう。我は所々に住むといえども、都を教化しようと思う」と告げたという。

当時の東京第(小一条院)の所在地は近衛大路の南、東洞院の西とされ、現在の京都御苑内・下立売御門の東北に当たる。宗像三女神は邸内の南西の隅に祀られていた。嘉祥3年(850)清和天皇がここで誕生している。生母は冬嗣の孫に当たる藤原明子。その縁から清和天皇の産土神として崇められたという。

宗像大社(福岡県宗像市)

貞観元年(859)には、筑前国の従二位勲八等田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神(宗像大社)とともに「太政大臣東一条第」の従二位勲八等田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神に正二位が奉授されている。また、これを伝える『三代実録』貞観元年2月30日条には、筑前の宗像大社と当社について「居は異なりと雖も、実は是れ同神なり」と記している。貞観6年(864)10月11日、従一位に進められる。

貞観7年(865)3月21日、同じく東京第に祀られていた天石戸開神に従三位が奉授された。

同年4月17日には国家安泰を願い、朝廷から石清水八幡宮平野神社とともに楯・鉾・鞍などが奉納された。さらに元慶4年(880)には梅宮大社・木嶋坐天照御魂神社・貴船神社とともに奉幣があるなど、式内社ではないが、朝廷より厚く遇された。

『大鏡』などによると、冬嗣の曾孫である藤原忠平は当社を非常に深く尊崇しており、宗像明神が現〔うつつ〕に語りかけてくることがあったという。ある時、宗像明神が位が卑しいのに忠平の崇敬を受けるのは心苦しいと告げたので、奏上して神階正一位を奉った。

さらに藤原道長は寛弘4年(1007)に神馬を奉納するなど、藤原氏の崇敬が篤かった。

さて、小一条院(東京第)の東には東一条院があり、清和天皇皇子の貞保親王の邸宅であったが、こちらも藤原忠平が伝領した。撫子や萩の花が多く植えられていたことから「花山院」と呼ばれた。忠平の子の師輔を経て伊尹に伝えられた。花山天皇は花山院を伝領して後院とし、没するまで住した。花山院の追号はこれに因む。

その後、両院を合わせて花山院と号するようになり、これを伝領した藤原家忠の後裔は花山院家を称した。以後、当社は明治維新まで花山院邸内に祀られ、花山院家の者が当社の別当を務めた。

応仁の乱の兵火で花山院とともに焼失するが、旧地に再建された。織田信長の時代にも同地にあったが、その後、花山院とともに現社地へ移転した。

安政年間(1854~60)現在の本殿が再建された。

往時も朝廷の崇敬は篤く、一の日には油揚げ豆腐十ずつ、六の日には小豆餅十ずつを、毎月六斎日(8・14・15・23・29・30の6日)に献備されたという。

明治になり、東京奠都に伴って花山院家も東京へ移ったが、宗像神社は旧地に残った。

その他の公家たちも東京に移住したため、御所や公家町は荒廃した。明治10年(1877)2月、京都に還幸した明治天皇より京都府に対し「大内保存(御所保存・旧観維持)」の御沙汰があった。京都府は直ちに屋敷の撤去や外周石垣土塁・道路工事、樹木植栽等の整備事業を行い、現在の京都御苑の景観が整えられていった。

同年3月19日、宗像神社は府社に列格。4月17日には宮内省より金300円を下賜された。

境内社

花山稲荷社

花山稲荷神社

御祭神は倉稲魂神。藤原忠平の時、衣食住の守護神として伏見稲荷から御分霊を勧請したと伝えられる。七清華家の一つである花山院家の稲荷であることから多くの人が高い御神徳を求めた。京都を中心に宮中・公家から庶民に至るまで広く信仰を集め、江戸の徳川将軍家や諸大名の江戸屋敷にも御分霊や御神札が祀られたという。花山講や燈明講といった数多くの講があり、参道の大型燈籠も講による奉納とのこと。

京都観光神社

京都観光神社

御祭神は猿田彦大神。京都を訪れる観光客の無事息災と、観光業界の発展を祈念し、道案内の神である猿田彦大神を奉斎して昭和43年(1968)11月1日に創建された。

少将井社

少将井神社

御祭神は櫛稲田姫神。当社の南300m余りの少将井御旅町には祇園社(現在の八坂神社)の御旅所があり、祇園御霊会(祇園祭)には三基の神輿のうち少将井神輿(現在の西御座)が駐輦していた。天正19年(1591)豊臣秀吉の命により少将井御旅所は四条御旅所に統合され、跡地には少将井天王社が建立された。明治10年(1877)宗像神社境内に遷座。現在も祇園祭後祭の7月24日には八坂神社より幣帛が供進される。

繁栄稲荷社

繁栄稲荷社

御祭神は命婦稲荷神〔みょうぶいなりのかみ〕。『花山院記』には「命婦社は昭宣公(藤原基経)の時、守護神と為して此の地に住す」とある。また、『土右記』には上記の藤原冬嗣が花山院に宗像大神を祀った経緯に続いて基経が当社を祀った経緯について述べている。それによれば、昭宣公(基経)の官位がまだ低かった頃、参内の途中で子どもたちが狐を捕らえ、杖で打っているのを見かけた。そこで車を止めてその狐を請い受け、車に乗せた後、綱を解いて解放してやった。すると、その狐が夢に現れ、住む場所を賜れば火難などの災難を防ごうと言った。基経が特別に住処を与えることはできないが、宗像明神の眷属とすることはできると答えると、喜んで去って行った。そこで、宗像明神の社の北側に高さ7、8丈の丘を築いたのだという。

金刀比羅宮

金刀比羅宮

御祭神は大物主神と崇徳天皇。文化3年(1806)10月10日、丸亀藩主・京極高中が日頃崇敬する金刀比羅宮の御分霊を丸亀藩京屋敷(当社の南西約200m、常真横町の北側にあった)に勧請したことに始まる。明治3年(1870)宗像神社境内に遷座した。旅行の安全や海産に関係する魚屋・料理店・旅館の守り神として信仰されているという。

境内風景

鳥居

京都御苑の南西にある間之町口から北に進むと、すぐに宗像神社の鳥居が見えてくる。鳥居の両側には筋塀、定規筋は5本。

社号標

社号標。

花山院跡碑

花山院邸跡碑。裏には花山院家の歴史が記されている。

花山稲荷神社

花山稲荷社。参道を進んで右手にある。

京都観光神社

京都観光神社。参道の左側にある。

手水舎

手水舎。

舞殿

舞殿。

境内社

拝所の左側にある境内社。左から金刀比羅宮、繁栄稲荷社、少将井神社。

拝所

拝所。中門が拝所となっている。

狛犬

拝所脇の狛犬。

扁額

拝所の扁額「宗像」。

本殿

拝所から見た本殿。

本殿

玉垣の外から見た本殿。

メモ

(平成23年撮影)

境内は樹齢600年といわれる楠など豊かな緑に覆われている。

初めての参拝は平成23年の7月、雨の中だった。その後、写真の撮り直しも兼ねて何度か参拝したが、人の手が入らなくなったのか、少し荒れた雰囲気になっていて、授与所も閉まっているようだった。

その後、ネットで毎月1日と15日に、本社と少将井神社・金刀比羅宮の御朱印がいただけるようになったことを知ったのだが、なかなかそれに合わせて参拝する機会がなく、ようやく令和6年10月に参拝できた。

当社が府社に列格したのは明治10年3月で、京都御苑の整備が始まった直後。それまで邸内社(私祭社)であったものを御苑の整備に当たって公認神社とし、社格が与えられたのであろう。京都御苑には公家の旧邸内社として、当社のほかに旧西園寺邸の白雲神社と旧九条邸の厳島神社がある。どちらも無格社であるのに対して当社のみ府社に列格したのは国史見在社であり、しかも六国史終了時点で従一位勲八等と非常に高い格式を誇ったためだろう。

宗像神社の概要

名称 宗像神社
旧称 東京第社 東一条隅神 宗像明神
御祭神 多紀理比売命〔たぎりひめのみこと〕
多岐都比売命〔たぎつひめのみこと〕
市寸島比売命〔いちきしまひめのみこと〕
〈相殿〉
倉稲魂神〔うかのみたまのかみ〕
天石戸開神〔あまのいわとわけのかみ〕
鎮座地 京都市上京区京都御苑9
創建年代 延暦14年(795)
社格等 国史見在社 旧府社
例祭 9月15日
神事・行事 3~4月/春祭(京都観光神社・花山稲荷社)
7月24日/少将井社例祭
11月/秋祭(京都観光神社・花山稲荷社)

交通アクセス

■京都市営地下鉄烏丸線「丸太町駅」より徒歩約3分

参考資料

・宗像神社公式サイト・境内掲示等
・『宗像神社史 下巻』宗像神社復興期成会
・『新撰京都名所図会 巻3』竹村俊則
・『昭和京都名所図会 5』竹村俊則
・『続史料大成 第18巻 増補』竹内理三
・『府県郷社明治神社誌料 上』明治神社誌料編纂所
・『都名所図会 拾遺 巻一』秋里籬島
・『稲荷大社由緒記集成 研究著作篇』伏見大社社務所
・『史料京都の歴史 第9巻(中京区)』京都市
・『造園の歴史と文化』京都大学造園学研究室
・日本歴史地名大系『京都府の地名』平凡社
・神道・神社史料データベース(國學院大學デジタルミュージアム)
・Wikipedia

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