丹生都比売神社は天野大社とも称し、全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。約1700年前に創建されたと伝えられる。弘法大師は高野山の地主神・真言密教の守護神とし、山上の伽藍に勧請した。元寇に際して霊験を現し、幕府より社領を寄進され、紀伊国一宮として崇敬された。
正式名称 | 丹生都比売神社〔にうつひめじんじゃ〕 |
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御祭神 | 丹生都比売大神 高野御子大神 大食都比売大神 市杵島比売大神 |
社格等 | 式内社(名神大) 旧官幣大社 紀伊国一宮 別表神社 (世界遺産) |
鎮座地 | 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.niutsuhime.or.jp/ |
御朱印
(1)平成16年拝受の御朱印。中央の朱印は「丹生都比売神社」。右上の印は「紀伊国一の宮」、左下は「天野大社」。
昔の御朱印
大正・昭和の御朱印
(1)昭和初期の御朱印。昭和4年から11年までの間に授与されたもの。中央の朱印は「丹生都比売神社」、右上の印は「官幣大社」、左下は「紀伊国伊都郡天野村鎮座」。
(2)昭和初期のものと思われる御朱印。中央と右上の印は(1)と同じ。左下の印は「丹生都比売神社社務所」。
※因みに昭和17年発行の『惟神の礎』には、これらと同じ書体の「官幣大社丹生都比売神社」という印が掲載されている。
江戸時代の納経(御朱印)
(1)弘化2年(1845)の納経(御朱印)。揮毫は「奉納経」「紀州伊都郡 天野」「正一位丹生大明神御廣前」「丹生惣神主 役人」。中央の宝印は判読できないが、中央に「丹生」、左に「天野」らしき文字が見える。左下の黒印は判読できない。
御由緒
丹生都比売神社は、高野山一山の地主神。高野山の登山口にある丹生官省符神社をはじめ、丹生都比売神を祀る神社の総本社である。
丹生とは丹(丹砂)の生ずるところを意味するという。丹砂は朱砂・辰砂ともいい、水銀の原石である硫化水銀のことで、古くから朱色の染料の材料として用いられた。もともと丹生都比売神は、丹砂の採掘を掌る丹生氏によって祀られていたと考えられている。
御祭神の丹生都比売大神は天照大神の妹神・若日女尊〔わかひるめのみこと〕のこととされ、『丹生大明神告門〔にうだいみょうじんのりと〕』によれば、神代に紀伊国伊都郡奄田に降臨し、御子である高野御子大神とともに大和・紀伊を巡行した後、天野原に鎮まったという。また『播磨国風土記』逸文によれば、神功皇后の三韓征伐に際して託宣し、その功に対して紀北の広大な土地が神領に定められたという(若日女尊=稚日女尊は生田神社の御祭神であり、三韓征伐に関わる伝承は、生田神社の鎮座伝承にも関わる)。
この神を祀った天野祝〔あまののはふり〕(丹生祝)は『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条に見え、この頃にはすでに天野祝によって奉斎されていただろうという。
弘法大師の高野山開創に際し、高野御子大神が狩人の姿の狩場明神〔かりばみょうじん〕として現れ、二匹の犬に先導させた話はよく知られる。丹生都比売から高野山を譲り受けた弘法大師は丹生明神・高野明神を一山の鎮守とし、山上の伽藍に御社を建立した。
以来、高野山と一体になって繁栄し、皇室からも篤い崇敬を受けた。貞観元年(859)従四位下勲八等、元慶7年(883)には従四位上勲八等に進む。延喜式では名神大社に列し、月次・新嘗の官幣に預かった。
天野検校と呼ばれた雅真僧都は天野社に住み、荒廃した高野山と復興と天野社の充実に尽力した。この時、経済的な協力したのが当地の有力者・坂上氏の一族で、以後、天野社の氏の長者となった。
正暦5年(995)落雷で高野山が大火となった後、高野山の復興に尽くした祈親上人は、高野山奥之院の燈籠堂に、今も消えることなく灯されている「貧女の一灯」の故事で知られる。この灯明を寄進したお照のものと伝えられる墓が神社の近くにある。また、これに対比される「長者の万灯」の長者は氏の長者のことという。
承元2年(1208)、二位尼(北条政子)が熊野詣での帰りに天野社に参拝した。この時、行勝上人の懇請により浄財を喜捨し、気比明神と厳島明神が勧請されたという。
元寇に際しては託宣があり、その霊験が著しかったことから幕府より神領の寄進があった。また、この頃より紀伊国一宮を称するようになった。一般に紀伊国の一宮は日前・国懸神宮とされるため、紀伊国では一宮が並立していた。なお、伊太祁曽神社を一宮とする資料もある。
その後も高野山の支配下で平穏に時を経ていたが、明応5年(1496)隣家からの出火で、第一殿・第二殿・御供所・御影堂・多宝塔などが焼失。明応8年(1499)中門が現在のような楼門として再建されたのをはじめ、社殿などが順次上棟され、永正9年(1512)完成した。
天正の検地で社領を没収されたが、その後は高野山学侶方領から202石が分与された。
江戸時代、院主は蓮上院と花王院が交替で務めた。神主は天野祝の後裔と伝えられ、第一殿は丹生惣神主、第二殿は丹生相見、第三殿は丹生掃部、第四殿は松島内膳。さらに社家15家、里供僧6名、宮仕6名、巫女4名、大庵室留守居役1名が奉仕していた
明治の神仏分離で高野山と切り離されてからは厳しい時代を迎えた。神社周辺の仏堂は競売に付され、残ったのは小学校が設置された大庵室だけだった。神主は1人だけとなり、高野山からわずかな費用の援助を受け、細々と祭典を営んでいたという。
明治6年(1873)県社に列格。明治41年(1908)楼門が国宝(現・重要文化財)に指定された。大正13年(1924)官幣大社に昇格する。
昭和40年(1965)本殿が国の重要文化財に指定され、平成14年(2002)には境内が国の史跡に指定された。平成16年(2004)には高野山・熊野三山などとともに『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部として世界遺産に登録された。
写真帖
見どころ
■楼門
入母屋造檜皮葺三間一戸、室町時代中期の様式。平成5年の解体修理で発見された墨書により、明応8年(1499)の建立であることがわかった。明治41年(1908)旧国宝に指定され、現在は重要文化財。
■本殿
一間社春日造、檜皮葺の社殿が4棟並ぶ。第二殿と第四殿が文明元年(1469)、第一殿は正徳5年(1714、前年の台風で破損したため)、第三殿は明治34年(1901、明治32年の台風による倒木で破損したため)の建立。各社殿の正面の柱間は約3.4m、一間社春日造としては最大級のもの。それぞれの内部には徳治元年(1306)の一間社春日見世棚造、本瓦型板葺の宮殿が納められている。重要文化財。
■輪橋
鏡池に優美な姿を写す反り橋。淀君の寄進と伝えられる。
メモ
最初に参拝したのは平成15年、団体で高野山に参拝した際に立ち寄った。まだ本格的に御朱印を集め始める前だった上、朝早い時間の参拝だったので、御朱印はまったく考えていなかった。
2度目の参拝は世界遺産に登録された平成16年。この時も団体で高野山に参拝する途中だった。意識して御朱印をいただき始めた頃だったのだが、午後4時過ぎというのに人がおらず、御朱印はいただけなかった。
高野山で同行した人たちと別れ、関西での仕事を済ませた後、時間ができたので再チャレンジ。JR笠田駅からコミュニティバスに乗り、3度目の参拝をした。最終バスで、社務所を片付けているところに駆け込んで御朱印を拝受できた。当時はバスの停車時間が20分ほどだったので慌ただしい参拝となり、あまり写真も撮れなかった。
少し古い資料では「にぶつひめ」となっていることが多く、最初に参拝したときにいただいた由緒書きでもそうなっているが、3回目の参拝時にいただいたものは「にうつひめ」となっている。世界遺産登録前後に改めたものと思われる。
丹生都比売神社の概要
名称 | 丹生都比売神社 |
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旧称 | 天野社 天野大社 丹生四所明神 |
御祭神 | 〈第一殿〉 丹生都比売大神〔にうつひめのおおかみ〕(丹生明神) 〈第二殿〉 高野御子大神〔たかのみこのおおかみ〕(高野明神) 〈第三殿〉 大食都比売大神〔おおげつひめのおおかみ〕(気比明神) 〈第四殿〉 市杵島比売大神〔いちきしまひめのおおかみ〕(厳島明神) 〈若宮〉 行勝上人〔ぎょうきょうしょうにん〕 |
鎮座地 | 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230番地 |
創建年代 | 伝・応神天皇の御代(270~310) |
社格等 | 式内社 旧官幣大社 紀伊国一宮 別表神社 (世界遺産) |
延喜式 | 紀伊國伊都郡 丹生都比女神社 名神大 月次新嘗 |
例祭 | 10月16日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月3日/元始祭 1月第3日曜日/厄除祭・御田祭 2月17日/祈年祭 4月第3日曜日/花盛祭 6月30日/夏越の大祓式 7月18日/神還祭 11月23日/新嘗祭 12月31日/年越の大祓式 |
文化財 | 〈国宝〉銀銅蛭巻太刀拵 〈重要文化財〉楼門 本殿(4棟)・本殿内宮殿(4殿) 木像狛犬(4対) 兵庫鎖太刀拵 金銅琵琶 木造鍍金装神輿(2基) 法華経(8巻) 後村上天皇宸筆寄進状 侍従頼宝施入状 〈史跡〉丹生都比売神社境内 〈県重要文化財〉鉦鼓縁 鼓胴(3面) 瑞華鸞八稜鏡 |
巡拝 | 神仏霊場(12番) |
交通アクセス
□JR和歌山線「妙寺駅」より徒歩約1時間半、またはタクシーで約15分
□JR和歌山線「笠田駅」よりバス約30分、またはタクシーで約15分
■コミュニティバス天野コース「丹生都比売神社前」下車すぐ