小野神社は、安寧天皇18年(532)の創建と伝えられる。延喜式神名帳所載の小野神社に比定される。武蔵国の一宮とされ、総社六所宮(大國魂神社)の東殿第一位に祀られているが、たびたびの戦乱や多摩川の氾濫のために衰微した。江戸時代には一宮大明神と称され、徳川将軍家より朱印地15石を給わっていた。
正式名称 | 小野神社〔おのじんじゃ〕 |
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御祭神 | 天下春命 瀬織津比売命 稲倉魂大神 |
社格等 | 式内論社 武蔵国一宮 旧郷社 |
鎮座地 | 東京都多摩市一ノ宮1-18-8 [Mapion|googlemap] |
最寄り駅 | 聖蹟桜ヶ丘(京王線) バス停:一の宮ストア |
公式サイト | http://onojinja.or.jp/ |
小野神社の御朱印
(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は「小野神社之印」。右下に「武蔵一之宮鎮座」、左下に「社務所印」。
(2)平成26年拝受の御朱印。中央の朱印は「小野神社之印」だが、新しくなっている。右下に「武蔵一之宮鎮座」、左下に「社務所印」。
御由緒
小野神社は、延喜式神名帳所載の小野神社に比定される。中世には武蔵国一宮とされていたようで、総社六所宮(府中市の大國魂神社)でも一之宮として祀られているが、資料が少なく、不明な部分が少なくない。なお、一般に武蔵国一宮とされるさいたま市大宮区の氷川神社は、六所宮では三之宮として祀られている。
多摩川対岸の小野宮(府中市住吉町)にも小野神社があり、こちらも延喜式内社を称する。御祭神も同じく天下春命、瀬織津比売命である。多摩川の氾濫や流路の変化により分祭されるようになったともいわれるが、どちらが元であるかについては議論が分かれる。江戸時代以前、当社は一宮大明神、小野宮の小野神社は小野大明神と呼ばれていた。
社伝では兄武日命が初めて国造となった時、祖神として天ノ下春命を祀ったという(ただし兄武日命は无邪志国造で天穂日命を祖とする出雲臣の一族。多摩川流域を支配したと考えられる胸刺国造は兄武日命の子・伊狭知直に始まる。天ノ下春命は八意思兼神の子で、知々父国造の祖である。大化の改新後に无邪志・胸刺・知々父を統合して武蔵国が成立する)。
一説には、もとの御祭神は瀬織津姫一座であったともされる。
また、小野氏(後に武蔵七党の一つ・横山党として土着する)が天押帯日子命(孝昭天皇の皇子で小野臣の祖)を祀ったという説もある。しかし、初めて小野利春が武蔵の国司として着任する以前から小野神社が存在したことがわかっているので(『三代実録』『延喜式』など)、この説をそのまま認めるのは難しい。
小野神社の文献上の初見は宝亀3年(772)の太政官符とされる。元慶8年(884)正五位上に昇叙。延喜の制では小社に列せられる。
平安後期になると、小野牧を管理する小野氏(後の横山党)によって祀られ、繁栄するようになったと考えられる。武蔵国の一宮とされ、六所宮(大國魂神社)の東殿第一位に祀られた。
永承6年(1051)陸奥守に任じられた源頼義が奥州に下向する途中、その子・義家とともに参籠し、太刀一振りと和歌一首を奉納したと伝えられる。
『吾妻鏡』の養和元年4月20日条(1181)に、「武蔵国多摩郡内吉富、并一宮、蓮光寺等」が小山田重成から平太弘貞に返付されたという記事がある。これは、小野神社の神領が吉富郷の別名になっていたのであろうという。弘安元年(1278)頃のものとみられる武蔵国の年貢算用状には、武蔵国衙の職掌とともに一宮神主も記載されている。
しかし鎌倉時代末から戦国時代にかけ、当社近辺ではたびたび戦乱や多摩川の氾濫があり、多大の被害を受けて衰微した。
江戸時代に入り、二代将軍徳川秀忠により社殿が造営される。慶安元年(1648)朱印地15石を給わった。
『新編武蔵風土記稿』によれば当時は本地堂があり、本地仏の文殊菩薩が祀られており、往古は別当寺があったことは間違いないとしている。文政(1818~31)の頃には新四国八十八ヶ所の48番札所となり、参拝者も多かったという。この文殊像は、明治の神仏分離の後、村内の真明寺に遷された。
明治6年(1873)郷社に列格。明治21年(1888)内務省より古社保存として金百円を下付された。
大正15年(1926)近隣からの火災により、御神体と一部の神宝、鳥居を残して社殿等すべて焼失。昭和2年(1927)現在の本殿・拝殿が再建された。昭和39年(1964)より社務所の新築、随神門の再建、社殿の後方への移築などが行われ、昭和49年(1974)末社の再建が完了、随身を随神門内に安置し、記念の大祭を行った。
都の有形文化財に指定されている木造随身倚像は2躯あり、古いほうは、内部の墨書により、元応元年(1319)因幡法橋応円によって制作されたことがわかった。寛永5年(1628)鎌倉仏師・大弐宗慶によって修復され、この時に新しい方の像も造立されたと考えられている。
往古、総社六所宮(大國魂神社)の祭礼(国府祭、現在のくらやみ祭)には、一之宮・小野神社をはじめとする六社の神輿が集まっていたという(府中市若松町の人見稲荷神社からは、三之宮・氷川神社の神輿の御旅所であったという鎌倉時代の板碑が出土している。現在でも相模国の国府祭では一宮以下の神輿が集まる)。
この故事にのっとり、文化文政(1804~31)の頃から小野神社の神輿がくらやみ祭の神輿渡御に参加していた。その際には、まず一ノ宮から関戸橋を渡って小野宮の小野神社に向かい、それから府中本町へ渡御していたという。しかし、交通事情の悪化その他の事情により、昭和35年(1960)に中止された。
補足
武蔵国の一宮については、一般的には大宮の氷川神社とされている。氷川神社は、延喜式神名帳では武蔵国に二社しかない名神大社の一であり、月次・新嘗の官幣にも与るなど武蔵国随一の社格を誇る大社である。近代社格制度においては官幣大社に列している。
一方、小野神社は延喜式神名帳では小社であり、近代社格制度においては郷社である。神社の規模も、足立の大宮と称される氷川神社とは比ぶべくもない。
しかし、上記のように『吾妻鏡』など鎌倉時代の資料では小野神社が一宮として扱われており、南北朝時代の『神道集』の「武蔵六所大明神事」でも小野神社を一宮、氷川神社を三宮としている。室町時代の『大日本国一宮記』は氷川神社を一宮とする。
一宮や六所宮の成立は国ごとに事情が異なるようで、武蔵国の場合は武蔵七党など有力武士団との関連が指摘されている。彼らは国衙の有力在庁官人としても影響力を持っていた。式外社であるあきる野市の二宮神社(小河大神)が、式外社であるにも関わらず二宮とされているのも、武蔵七党の一で小川牧を管理していた西党と関わりが深いことによるだろう。
国府からの距離が近いこと、有力在庁官人でもあった横山党との関わりが深かったことなどが相まって小野神社が一宮とされたと考えられる。
その後、小野神社が衰微するに従い、もともと社格が高く、社勢も盛んだった氷川神社が名実ともの一宮として認識されるようになったのであろう。
写真帖
メモ
緑の多い境内に鮮やかな朱塗りの社殿が建つ。あまり歴史を感じさせるたたずまいとは言えないが、随身門には随所に見事な彫刻が施され、非常に立派なものである。
初めて御朱印をいただいた頃は神職常駐ではなかったため、御朱印をいただくためには祭事等に合わせる必要があった。私が御朱印をいただいたときは、神社に連絡を入れ、ご祈祷などのために宮司さんが神社にいらっしゃる日を教えていただいた。
現在でも、宮司さんがいらっしゃらないことがあるので、事前の連絡が無難だろうと思われる。
小野神社の概要
名称 | 小野神社 |
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通称 | 一ノ宮小野神社 |
旧称 | 一宮大明神 一宮明神社 |
御祭神 | 天下春命〔あめのしたはるのみこと〕 〈相殿〉 瀬織津姫命〔せおりつひめのみこと〕 稲倉魂大神〔いなくらたまのおおかみ〕 伊弉冉尊〔いざなみのみこと〕 素盞嗚尊〔すさのおのみこと〕 大己貴大神〔おおなむちのおおかみ〕 瓊々杵尊〔ににぎのみこと〕 彦火火出見尊〔ひこほほでみのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都多摩市一ノ宮一丁目18番8号 |
創建年代 | 安寧天皇18年(B.C.532) |
社格等 | 式内社(論) 武蔵国一宮 旧郷社 |
延喜式 | 武蔵國多磨郡 小野神社 |
例祭 | 9月第2日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭 2月節分/節分祭 2月初午/初午祭 2月第2日曜日/祈年祭 4月第1日曜日/末社祭 5月5日/六所宮神幸祭 11月第2日曜日/新嘗祭 12月大晦日/除夜祭 |
文化財 | 〈都有形文化財〉木造随身椅像 |
交通アクセス
□京王線「聖蹟桜ヶ丘駅」より徒歩6分